2014年6月18日水曜日

☆20140607 山崎英芳さん 証言収録

2014年6月18日水曜日 18:06
2014年6月7日(土)


山崎英芳さんにインタビューしました。場所は、広島女学院の第1AV教室、インタビュアーは高3の久保田です。

山崎さんは1963年7月29日のお生まれです。
約10年前にアメリカにある日本人学校の教師として赴任されました。そのときに、日本人向けの情報誌で親鸞像のことを知りました。

実際に見た親鸞像は決して目立つものではなく、興味を持って見ないと目に入るものではなかったそうです。

2005年の5月に核不拡散条約(NPT)再検討会議に合わせてパレードが行われました。
山崎さんご家族は、この行進に参加するのは危険ではないかとも思われたそうですが、実際は全くそのようなことはありませんでした。
この行進には約4万人が集まりました。山崎さんは、アメリカでパレードがこんなに大々的に行われ、多くの人が集まるのかと、とても驚いたそうです。


毎年ニューヨーク本願寺で8月5日8時15分に合わせて行われている平和式典にも、山崎さんは参加されました。
この式典では様々な宗教の代表者が平和の鐘をつき、それに合わせて歌や折り鶴などが捧げられます。
その後、ニューヨーク本願寺からリバーサイド教会まで、皆でプラカードや写真などを掲げて黙って歩く「ピースウォーク」をしました。

山崎さんは、原爆を投下した国で、被爆国民が平和式典に参加していることに、とても複雑な心境になったそうです。
なぜなら、山崎さんのお父さんは入市被爆しており、毎年8月6日になると被爆体験を聞かされていたからです。
また、山崎さんは、外国で差別を受けたことで、自分は日本国民であるという意識が強くなったとおっしゃっていました。
しかし山崎さんは、式典に参加した多くの外国の方々が原爆に興味を持ってくれているということを実感し、嬉しく思っているそうです。



山崎さんは、アメリカが被爆国の像を受けいれたことは信じられないが、この親鸞像が両国の懸け橋になってくれたらいいと思っているそうです。
この親鸞像が決して目立つものでなかったとしても、アメリカに立っていることに意味があると考えています。

山崎さんは、
「批判するのは簡単だが、正しいと思っていることを主張するのは難しい。だからこそ、何故戦争が起こったのか、何故原爆が投下されたのか、きちんと正しい知識・歴史観を学び、自分なりに考えてほしい。目の前の情報に飛び付くのではなく、それをもとに見極める力を養っていってほしい。」
とおっしゃっていました。


今回、山崎さんのお話を聞いて、私達がこれからすべき事が分かりました。
それは、「メディアが発達し、様々な情報が入り混じっている情報社会」に生きている今、膨大な量の情報の中から正しい情報を選びだす力をつけなければならないということです。
また、国内外における平和に対する意識に関する様々な情報も、きちんと見極める力を養っていくべきだとも気づかされました。


今日は貴重なお話をしてくださりありがとうございました。(大坪・難波・荒井)

2014年6月13日金曜日

☆20140604 土井史郎さん 証言収録

2014年6月13日金曜日 18:03


2014年6月4日(水)


今日土井さんの証言収録に三滝まで行ってきました。
インタビュアーは高3の久保田です。



土井さんは昭和10年10月23日生まれの78歳です。
当時土井さんは、祖父母とご両親、アメリカ生れの2人の姉,4人の兄がいました。
土井さんが被爆したのは小学校4年生(8歳)の時でした。
8月6日の朝8時になっても先生が来なかったので級長(クラス委員長)としてかくれんぼをすることを提案しました。土井さんはじゃんけんをした結果鬼になり、100数えていました。
すると、近所のおばさんに「子供、敵機じゃ!はよ逃げい!」と言われました。
そして空を見上げるとピカッと光るとともに、5m程離れた教室まで吹き飛ばされたそうです。その時、教室の窓ガラスの破片が後頭部に突き刺さりました。
幸いにも机といすの間に吹き飛ばされた土井さんは、落ちてきた天井に押しつぶされることなく無事に生き残ることができました。


自宅に帰ろうとした時、青年会館の近くのかやぶき屋根の家が光線により火事になっていました。
かやぶき屋根というのは、かやとわらで作られた屋根です。
土井さんが避難してくるのが遅い後輩を待っていると、友人に顔が真っ赤だと言われ、その時初めて土井さんは、自分のシャツやズボンが真っ赤に染まっており、後頭部にガラスが刺さっていることに気付きました。



当時、土井さんの家には、疎開してきた家族と土井さんのご家族を含め、計4家族で暮らしていました。
土井さんのお父さんは三滝の副会長をしており、連日、現在の広島の100m道路で建物疎開の作業をしておられました。8月6日の朝もそこで作業をしていて、被爆しました。爆風により路面電車の線路に倒れ、足首から下が鉄骨の下敷きになってしまい、逃げる事が出来ず、火が回って焼死しました。
後に、土井さんの姉と兄がお父さんを探しに行き、焼死したお父さんのご遺体を見つけました。
そこには、毎日履き替えていた新しい地下足袋と金歯がありました。その金歯は、日本製のように薄くなく厚いもので、アメリカに移民していた頃に入れたものだと、父の妹が断言したため、その近くにある骨が父のものだと思い、周辺の骨を拾い持ち帰ってお墓に納めました。

ご両親とご兄弟は亡くなり、今でもご健在なのは土井さんと1人のお姉さんだけです。


土井さんの身体に最初に異変が起きたのは高校卒業後のことでした。単車(オートバイ)で商売をしていたある日、三滝にある踏切で、踏切が開くのを待っていると、突然意識を失い倒れたそうです。それから一週間程ふらつき出歩く事もままならなかったそうです。
比治山にある病院で検査を受けたところ、被爆の影響による白血球減少と診断され、日赤病院へ移り再検査をすると、白血球の数が3000をきっていました。輸血をしましたが白血球の数は増えず、薬もなく、安静にしながら1年程日赤に通い、落ち着きはしました。しかし、体調が良くなることはなく、今でも炎天下にいると目眩や吐き気がするそうです。



昭和12年に6つの親鸞像が作られましたが、鉄として軍事用に使われたため、広島にあった1つしか残りませんでした。三滝にあった親鸞像は被爆し、直射日光が当たっていたけさの下の部分だけが赤くなっていました。この親鸞像は昭和26年(戦後6年)に広瀬さんによりニューヨークに送られました。土井さんは、直接立ち会ってはいませんが、三滝から横川へ運ばれる写真を今でも大事にとっているそうです。

土井さんにとってこの親鸞像は当たり前にある存在でした。
なので、土井さんご自身も関心をもって見ることがなかったこの親鸞像が、ニューヨークに送られたことはとても良いことだとおっしゃっていました。


土井さんはアメリカを憎まない方がおかしいとおっしゃっていましたが、その一方で、憎んでも仕方がないとあきらめのような、やるせない気持ちを抱いていらっしゃいます。
だからこそ、核兵器は絶対に反対してほしい、と強く思っています。「原爆は無い方がいい。罪のない人も殺すから。善人ばかり死ぬ。悪賢い人はうまい具合に生き残る。」とおっしゃいました。私たちが核兵器廃絶を求める活動をしていることを聞くと「ぜひ、頑張ってもらいたい」と激励してくださいました。

今、原爆の被爆者が減ってきている中、このように生の声を聴ける事はとても貴重なことなので、土井さんの気持ちを無駄にしないようこれからも核兵器廃絶の署名運動を頑張っていきます。


貴重なお話ありがとうございました。 (荒井・大坪・難波)

2013年5月30日木曜日

☆0326今道徹雄さん証言集録

2013年5月30日木曜日 17:14
3月26日(火)

今道徹雄(いまみち てつお)さんの証言集録を安佐南区にある今道さんの自宅で行いました。
インタビュアーは高2の櫃本です。

今道さんは昭和11年1月5日生まれの77歳です。
長崎県出身である今道さんは9歳の時、父親が広島の造船所に転勤になったために、両親と兄、当時5歳と2歳の弟2人と共に広島に移り住みました。
しかししばらくして、父親は朝鮮の戦場に行くことになり、母親と兄弟たちと広島に残りました。母親が造船所の食堂で働くことで生計をたてていました。今道さんは学校を休み弟たちの面倒を見ていました。




8月6日、今道さんは弟たちと爆心地から4キロの場所にある自宅にいらっしゃいました。朝食を食べ終え、後片付けをしている時でした。突然青白い光に包まれ、その後ドーンという大きな音が聞こえ、強い爆風に吹き飛ばされました。気づいたら家中の家具や襖が吹き飛んで、家の中がめちゃくちゃでした。
幸い大きな怪我はなく、すぐに弟2人を探しました。弟たちを探している時間はとても長く感じたそうです。弟たちを両脇に抱え込み、近くの防空壕に行き、母親の帰りを待ちました。防空壕の中にも血まみれの人がたくさんいたそうです。母親と無事会うことが出来たとき、はじめて緊張がとけたとおっしゃっていました。兄も光線で脚に火傷を負ったものの、命は助かりました。


 8月9日早朝、家族5人、己斐駅から電車で長崎に帰りました。岩国駅周辺には爆撃の跡がクレーターのように残っていました。水がなくなったので、電車が駅で止まっている間に水をくみに行きました。すると電車が発車しそうになったこともあったそうです。
しかし長崎にも原爆が落とされ、長崎駅の手前の駅までしか電車が止まりませんでした。そこでみんなで被爆直後の爆心地の長崎の町を歩いて家に帰りました。アメリカ軍の飛行機が偵察のためか、時には操縦士の顔が見えるほど近くに降りてきました。そのたびに崩れた家の影や、防空壕の中に隠れながら進んでいきました。その時、恐いという感情はなく、ひたすらに家に帰っておいしいものを食べるんだ、ということを考えていたそうです。
家は無事だったのでしばらくは長崎で生活しました。


1ヶ月後、父親が無事に戦場から帰ってきて、再び広島で家族みんなで暮らし始めました。食糧不足のため、土地を買って麦畑などを作ったり、山で葉っぱを採ってきたり、カエルを捕まえたりして食料を確保していました。時には闇市でドーナツを買って食べました。この頃はとにかく自分達の食料を確保しなければ、という思いでいっぱいだったそうです。
そんな中、当時2歳だった弟が原爆症のため亡くなってしまいました。今道さんはもし、長崎の町を歩いていなければ、弟は原爆症にならなかったのではないかと考えるときがあるとおっしゃっていました。

弟の面倒を見るために長く学校を休んでいた今道さんですが、担任の先生と話し合った結果、留年することはなく、また学校に通い始めました。

広島と長崎の両方で被爆された今道さんは、福島第1原発事故による被曝者への制度を整えてほしいとおっしゃっていました。今道さんも放射線の影響による大きな病気を何度も患われました。福島の被曝者の未来をとても心配されていました。広島の原爆を学んでいる私たちが、福島の事も学び、二度と新たな被曝者を出さないように広島の被爆者から継承されたことを後世に残していきたいと思いました。(金森)


2013年4月6日土曜日

☆20130309 スティーブン・リーパーさん インタビュー

2013年4月6日土曜日 16:49
3月9日にスティーブン・リーパーさんのインタビューを広島女学院の第1AVにて行いました。インタビュアーは英語科の高見先生です。
スティーブン・リーパーさんは広島平和文化センターの理事長で今年度をもって辞任されるということでお話を伺いました。来年度より広島女学院大学で教鞭をとられます。
リーパーさんにはいくつかの質問をしました。

①理事長をしていて最も印象的だった事はなんですか?

2020ビジョンの組織をヨーロッパ(ベルギー)でつくれたことです。今までは広島だけでしたがネットワークを広げることが出来ました。3月1日現在、5551の市長が加盟しています。4年一度の総会が今年の8月に広島で開かれます。

②成し遂げた事、成し遂げられなかった事はありますか?

成し遂げた事
4人の非日本人(アメリカ・ヨーロッパ)の方をやとった事です。
その方達がキャンペ二アーとなり多くの市長を集めてくれたことです。アフリカや南米でもキャンペ二アーが増えているそうです。「101の原爆展」(2007年10月~2008年11月)をアメリカで開けたことです。これには女学院の卒業生の方も関わっています。

成し遂げられなかった事
十分なお金が集められなかったことです。資金集め計画(チャリティーコンサートなど)を行っていきたいです。

③理事長としてどんな感想をお持ちですか?

日本が核兵器保有国の強い国に従っていて、はっきりと核兵器廃絶することを言及できていないことを思いました。

④日本政府に対してどんな意見をお持ちですか?

外務の省(政府)がもっと核の傘には入らないという強い意志を持つべきである。日本はアメリカに依存している。日本は今、アメリカの防力の上にできている。

⑤リーパーさんが平和活動を始めるきっかけとなった出来事は?

広島に来たことです。広島に来るまでは平和について考ええたことがありませんでした。
森滝市郎さんの「力の文明から卒業して愛の文明にならなければならない」という本の中の文に影響をうけました。力の文明とは、正義のためには暴力が必要だという考えです。

⑥リーパーさんにとって平和とは?

平和は社会的健康。地球を健康にすることが平和である。平和はみんなが健康であること。
今は地球そのものと全ての人間が健康になることを考えることが平和に繋がると思う。


~リーパーさんのお話を聞いての感想~
平和と環境問題を結びつけて考えていらっしゃることに驚きました。広島に住んでいる者として自分に何が出来るか考えていかなければいけないと思いました。

貴重なお話ありがとうございました。
                             (河原・村上)

2013年3月26日火曜日

☆20120929佐々木陸子さん証言収録

2013年3月26日火曜日 17:05

今日は佐々木陸子さんの証言収録を佐々木さん宅で行いました。インタビュアーは高2の丹羽です。 

佐々木さんは昭和8年2月8日生まれの79歳で、12歳の時に比治山女学校の中で被爆されました。家族構成は父、母、姉3人の6人家族でした。8月6日佐々木さんは建物疎開の後片付けに行く予定でしたが、警戒警報が鳴ったので学校に向かいました。教室の掃除後、腹痛のため友人の膝の上に横になっていたところ目をつぶっているのにまわりが明るくなり、次の瞬間もの凄い音がし、気づいたときには耳を押さえてしゃがんでいました。まわりを見てみると、一面ガラスだらけでした。その後窓から裸足で校庭に出ると校長先生が血を流しながら生徒達を誘導している姿が見えました。友達もみんな涙を流しながら血だらけだったそうです。そして仁保の山に逃げました。ケガをしていた生徒は先生におんぶされ逃げました。

  しばらくして帰宅許可が下りたため自宅に向かいました。それまでには屋根が吹き飛ばされ、ガラスも割れ形のみ残った家ばかりで、「自分の家だけは無事でありますように」と拝みながら帰ったそうです。しかし自宅はガラスが散乱し、風呂場もガラスの破片で埋め尽くされていました。畳が爆風により浮きその間にインク瓶がはさまっていました。両親は防空壕に逃げており、それを兵隊の方に聞いた佐々木さんはすぐにそこに向かいました。防空壕の中で両親と再会し抱きしめ合ったそうです。家の近くの兵役所には中心地からけがをした人々が送り込まれ看護婦の方は救護にあたっていました。
  その後親戚のいた宮島に行く途中に見た光景が今でも忘れられないそうです。的場町のあたりは建物は全てなく一面焼け野原で「こんなにも広島は小さかったのか」と思われたそうです。福屋前にあった大きな水槽にはやけどをした、たくさんの人が重なり合って亡くなっていました。福屋の地下からは助けを求める声が聞こえましたが何もできず通りすぎました。橋が落ちていたため電車の鉄橋を渡った佐々木さんはふと立ち止まり下を見ると、そこには2倍3倍にも体がふくれあがった死体が川に浮いていました。紙屋町の電車の中では手すりを持ったままの人や、降りようとして片足を上げたまま真っ黒焦げになっている人がいました。

(金森)


2012年7月23日月曜日

☆20120721山崎寛治さん証言収録

2012年7月23日月曜日 14:51

今日は山崎寛治さんの証言収録を女学院で行いました。
インタビュアーは高2の井上です。



山崎さんは昭和3年1月17日生まれの83歳です。
被爆したのは17歳のときで、広島二中(現在の観音高校)で1年生に教練を教えていました。
教練というのは敬礼の仕方、歩き方、銃の撃ち方などのことです。
当時は母親と名古屋から疎開してきたいとこ家族6人の計8人で暮らしておられました。


8月6日は事務作業のため学校に行っておられました。教室に入った瞬間、原爆が炸裂し、建物の下敷きになりました。気がついた時はすでに夕方でした。まわりには目が飛び出した人、腕が無い人がたくさんおり、口々に「アメリカがやったんだ!敵をとってくれ!」と叫び、亡くなっていったそうです。
山崎さんは手の指の骨が折れ、全身にガラスが刺さりました。顔や腕は黒い雨のため真っ黒でした。


翌日、足を負傷していたため歩くことができなかったので、這って中島町にある実家に向かいました。山崎さんの実家は現在の原爆資料館の売店あたりです。
今の平和公園のあたりは一面焼け野原で瀬戸内海が見えました。近辺で建物疎開作業をしていた市立高等女学校の生徒たちや男子学生たちが一列になって亡くなっていました。生きている人間はいませんでした。また、当時の鉄で出来たお風呂は残っており、水を求めてその中に入ったと思われるひとたちがそのまま亡くなっていました。


8月7日、山崎さんがあたりを見回すと一面が真っ白で昨日まであった遺体がなくなっていました。なんと遺体に無数のうじ虫がわいていたのです。
そんななか、奇跡的に生き残ったいとこの健太郎さんに会うことができました。そのとき初めて肉親に会えて本当に嬉しかったそうです。
名古屋から健太郎さんの父親も駆けつけ、みんなで家族の遺骨を探しましたが、結局見つかりませんでした。なので山崎さんの家のお墓には母親やいとこたちの遺骨は入っていません。


戦争が終わり8月20日頃、髪が抜けはじめました。昨日まで元気だったひとが血を吐き、体が腐って亡くなっていきました。そのとき「アメリカは毒ガスが入った爆弾を落としたんだ」と皆が思ったそうです。山崎さんはこの現象がとても恐ろしかったとおっしゃっていました。わたしたちも改めて原爆症の恐ろしさを感じました。


いとこの健太郎さんは名古屋に帰って4日後に髪が抜ける、体に斑点ができるなどの症状がでて、8月26日に亡くなったという話を10月にはいって聞きました。弟のように可愛がっていた健太郎さんの死をとても悲しみました。山崎さんはいまでも健太郎さんの写真を持ち歩き、大事にしていらっしゃいます。

戦後は東京の大学に通いました。戦争孤児になった山崎さんはたくさんのアルバイトをして授業料を稼ぎました。駅に来たひとを案内したり、銀座でものを売ったりしました。



ジュネーブ条約では、「毒ガスを使うこと」「民間人を殺戮すること」は禁止されています。原子爆弾はそのどちらにも反しています。アメリカは日本との戦争で明らかに優位であるにも関わらず、日本に2発も原爆を落とした。しかしアメリカはそのことに対し謝罪もない。そのことに山崎さんは憤慨しておられました。

わたしたち若者に伝えたいことは、友人を大切にしてほしい、ということです。自分が生きてこれたのは友人たちがいたからだとおっしゃっていました。
わたしたちは学校に行ったらすぐ友達に会うことができます。明日いなくなる、などと考えることはないでしょう。すぐ会えるからこそお互いを尊重しあうことが大切だと感じました。



山崎さんのいとこの米川綾子(よねかわ あやこ)さんは広島女学院に通っておられ、わたしたちの先輩です!
広島駅の近くで作業中に被爆し、亡くなられました。広島女学院の東校地にある慰霊碑にも名前があります。証言収録が終わった後、慰霊碑
の前で黙祷を捧げました。
肉親に女学院生がいるということでわたしたちも身近に感じられました。



貴重なお話ありがとうございました。(金森)


2012年3月26日月曜日

★今中茂さん証言動画収録(20120324)

2012年3月26日月曜日 10:42

2012年3月24日(土)



今中茂さんの証言収録に西条まで行ってきました。
インタビュアーは1年の源です。
西条はとてものどかで空気が澄んでいました。



今中さんはなんと大正7年5月10日生まれの94歳です!
今中さんは太平洋戦争前、中国の支那(シナ)に
兵隊として派遣され戦場で戦っておられました。戦場では日本軍の10人中5人が仲間が援護するために撃った銃弾に当たり亡くなったという衝撃的なお話も聞くことが出来ました。



戦場から帰ってきた後、今中さんは中国電力に務められました。
当時の食料は7分3分のごはんといって7割が米、3割が麦をつぶしたものだったそうです。

8月6日、今中さんは軍から招集を受け西条の農学校におられました。突然ピカッという光りを感じ、しばらくしてもの凄い爆音がきこえ、火薬庫が爆発したのではないかと思いました。広島のほうを見るときのこ雲が見えたそうです。知り合いの安否を確認するために中国電力に電話をかけましたが、繋がりませんでした。夕方になって広島から西条にきた負傷者に何が起こったのか聞くと「広島がなくなった。」と言われました。


翌日広島に入り、入市被爆しました。その時初めて広島に起こったことを知りました。生き残った人たちを福屋などに集め傷の手当てをしましたが、薬もほとんどないため傷口が化膿しハエがたかっていました。死体やがれきは穴に埋め次々と燃やしました。なので誰の遺骨かは分からなくなってしまいました。「こんなにたくさんの死体を見たのは初めてだった。」とおっしゃっていました。かろうじて生き残った人々も1週間以内に亡くなられました。今中さん自身も大腸癌などを患ったそうです。


最後に後世に伝えていきたいことを聞くと。。。
「戦争は絶対してはいけない。戦争は敵だけでなく仲間も傷つける。
仲間達は死ぬ間際に『お母さん』と言って亡くなりました。お母さんになるあなた達にこの悲しみを味わってほしくない。だから戦争はするべきじゃない。」とおっしゃっていました。

この思いを私達が伝えていかなければいけないと思いました。



インタビューの後カレーやケーキを振る舞ってくださいました。とてもおいしかったです!

貴重なお話ありがとうございました。(金森)