今日は佐々木陸子さんの証言収録を佐々木さん宅で行いました。インタビュアーは高2の丹羽です。
佐々木さんは昭和8年2月8日生まれの79歳で、12歳の時に比治山女学校の中で被爆されました。家族構成は父、母、姉3人の6人家族でした。8月6日佐々木さんは建物疎開の後片付けに行く予定でしたが、警戒警報が鳴ったので学校に向かいました。教室の掃除後、腹痛のため友人の膝の上に横になっていたところ目をつぶっているのにまわりが明るくなり、次の瞬間もの凄い音がし、気づいたときには耳を押さえてしゃがんでいました。まわりを見てみると、一面ガラスだらけでした。その後窓から裸足で校庭に出ると校長先生が血を流しながら生徒達を誘導している姿が見えました。友達もみんな涙を流しながら血だらけだったそうです。そして仁保の山に逃げました。ケガをしていた生徒は先生におんぶされ逃げました。
しばらくして帰宅許可が下りたため自宅に向かいました。それまでには屋根が吹き飛ばされ、ガラスも割れ形のみ残った家ばかりで、「自分の家だけは無事でありますように」と拝みながら帰ったそうです。しかし自宅はガラスが散乱し、風呂場もガラスの破片で埋め尽くされていました。畳が爆風により浮きその間にインク瓶がはさまっていました。両親は防空壕に逃げており、それを兵隊の方に聞いた佐々木さんはすぐにそこに向かいました。防空壕の中で両親と再会し抱きしめ合ったそうです。家の近くの兵役所には中心地からけがをした人々が送り込まれ看護婦の方は救護にあたっていました。
その後親戚のいた宮島に行く途中に見た光景が今でも忘れられないそうです。的場町のあたりは建物は全てなく一面焼け野原で「こんなにも広島は小さかったのか」と思われたそうです。福屋前にあった大きな水槽にはやけどをした、たくさんの人が重なり合って亡くなっていました。福屋の地下からは助けを求める声が聞こえましたが何もできず通りすぎました。橋が落ちていたため電車の鉄橋を渡った佐々木さんはふと立ち止まり下を見ると、そこには2倍3倍にも体がふくれあがった死体が川に浮いていました。紙屋町の電車の中では手すりを持ったままの人や、降りようとして片足を上げたまま真っ黒焦げになっている人がいました。
(金森)