2016年7月14日木曜日

☆2016322 有馬静江さん、片岡絹子さん 証言収録☆

2016年7月14日木曜日 10:52
2016322日に有馬静江さん、片岡絹子さんの証言収録を行いました。場所は、広島女学院中学・高等学校の図書室です。インタビュアーは高1の大久保です。

有馬さんは現在81歳、被爆当時は10歳でした。片岡さんは現在78歳、被爆当時は8歳でした。お二人は姉妹で、以前ヒロシマ・アーカイブの証言収録に協力してくださった、川本 知さんの妹さんです。(http://jogakuin.mapping.jp/2016/03/blog-post.html)当時の家族構成は、母と長男(川本さん)、次男、三女、そして叔母の7人で、お父様は、出兵していました。お二人は、爆心地から2㎞離れた楠町3丁目に住んでいました。

86日午前815分、お二人は、自宅近くの路地で遊んでいた時に被爆しました。原爆炸裂時は、火事かとおもったそうです。そして、瓦が飛んできて、砂ぼこりで辺りがだんだんと暗くなり、見えなくなりました。瓦やガラスが二人を襲い、血を流しながら、家に帰りました。家は無事でしたが、母親から土手の方へ逃げるように言われ、二人で土手に行きました。その後、母と弟、妹、また、学徒動員されていた兄が合流しました。そして、みんなで、長束町の竹やぶへと避難しました。

その日、86日の夜に弟が、そして翌日、7日の昼に妹が亡くなりました。弟と妹は、投下当時、母と一緒に隣の家から帰るところで、母よりも先に玄関を出たため、日向にいました。そのため、熱線を浴び、全身ひどい火傷を負っていました。竹やぶの中で、ござの上に寝かせているとき、「苦しい。水が欲しい。」と言っていました。しかし、水を飲ませたら死んでしまうと聞き、水をあげることができず、つらかったとおっしゃっていました。

お二人のけがは、最初は出血がひどかったものの、片岡さんの頭に入っていた瓦を取った時以外、医者にかかることはなかったそうです。しかし、時がたち「原爆を受けた人はお嫁にいけない。」という言葉を聞き、「受けたくて受けたのではないのに…」と思ったという、つらい経験もお話ししてくださいました。

収録の最後に、戦争は、絶対にやってはいけないものだと、何度もおっしゃっていました。また、「アメリカは恨んでいない。戦争を恨んでいる。」というお二人の言葉は、私の心に響きました。そして、お二人が私たち、若い世代に望んでいる「贅沢ではなくても、穏やかな・平和な日々を送ってほしい。」という思い。この日々の実現に向けて、少しでも私にできることは、この活動を続けていくことなのだろうと思いました。

2016年6月27日月曜日

☆20160507 清水弘士さん 証言収録☆

2016年6月27日月曜日 16:50
201657日に清水弘士(しみずひろし)さんの証言収録を行いました。場所は広島女学院高校、インタビュアーは高2徳弘有香です。

清水さんは1942628日生まれで現在73歳です。被爆当時は32か月弱で、爆心地から1.6km離れた広島市吉島町(現広島市中区吉島町)で被爆されました。家族構成は、父、母、10歳上の兄です。

原子爆弾が投下される前日194585日(日)、夜は空襲警報が鳴っていました。普通は警報がなると人々は家から出て防空壕に逃げますが、広島では警報が鳴っても爆弾が落とされなかったため、避難しない人も多かったそうです。86日以前に広島に爆弾が落とさなかったのは、原子爆弾の威力と被害をアメリカが調べるためだったと言われています。

86日の朝7時過ぎに警報が鳴りましたが、731分に解除されたので、お父さんは爆心地から約1kmの広島県農業会(現JA)に出勤しました。お兄さんは、遠く離れた庄原の寺に農村動員で寄宿していました。清水さんはお母さんと二人で爆心地から1.6kmにある吉島町の自宅にいました。庭で飼っていたウサギにエサをやり、遊んだ後、家に入った瞬間、爆発しました。大きな音がした瞬間、お母さんは清水さんを抱えてしゃがみました。意識が戻ると倒壊した家の中にいたので、お母さんは5分から10分かけて、屋根を突き破り、清水さんを引き上げ、抱きかかえて、避難場所に指定されていた吉島刑務所へ逃げました。逃げる最中、清水さんはお母さんに「べべ(洋服)は?飯台は?ミシンは?うさちゃんは?」と聞いたそうです。清水さんは着ていたはずの服が脱げ、裸でした。洋服を作る内職をしていたお母さんにとって大事なミシンやうさぎを置いて逃げたため、幼心にも異変が起こったとわかり、心配したそうです。空は、朝なのに夕暮れのようだったこと、そして人のかたまりが逃げていたことを覚えていらっしゃいます。清水さん母子は川沿いに南に向かって逃げたため、爆心地での惨状は見ずにすみました。が、翌日父親を捜しに勤務先に行く途中で、たくさんの川に浮く死体を見ました。勤務先で生存者のリストに父親の名前がなかったので、お母さんは亡くなったと思い、瓦礫に向かって手をあわせました。その姿を今も鮮明に覚えているそうです。

幸運にも、昼ごろ父親が戻ってきて再会できました。

お父さんは、原爆投下時、仕事を始めようと机についた瞬間吹き飛ばされました。出納係の仕事だったので、閃光で窓口の金網の痕が顔に焼き付き、全身火傷しました。爆心地から1kmで被爆されましたが、「ドーン!」という音は聞かなかったそうです。この証言は、爆心地付近で被爆された方に共通しています。ガラス窓が割れた中に、倒れていました。気が付いたときは、3000度といわれる熱線と爆風がまたたくまに広がったといわれる中、お父さんも炎の竜巻で囲まれていたので、必死で池の中に逃げました。火が収まり、赤十字病院に向かう途中で意識を失っているところを誰かに助けられたらしく、翌朝、赤十字病院の玄関前で意識を取り戻し、その後、家族と再会しました。

7日の夕方、8km離れた草津に住む叔父さんが助けに来たので、家族3人で草津に避難しました。お兄さんと再会を願い、お母さんは自宅付近の刑務所に一度戻り、壁に草津にいると伝言を残しました。草津には食べ物がなかったので、4日後、母親の姉が嫁いだ山口県の大島に疎開しました。再度刑務所の壁に山口に行くと伝言を残しましたが、お兄さんには会えませんでした。市内には腐敗した死体や死体を焼くにおいが充満し、普段より大きく刺す力が強いハエが大量発生していました。生き残った人のやけどに群がり、卵をうみつけるので、みな体中に湧く蛆虫に苦しんだそうです。

疎開先の山口でも食料が不足したので、迷惑をかけられないと約1か月後、広島に戻りました。お父さんは体が弱って動けなくなっていました。マツダスタジアムの近くにあった叔父の半壊状態のアパートをなんとか直し、916日から住み始めました。9月下旬に帰ってきたお兄さんと4人で暮らしていましたが、原爆投下後から2か月後の108日、お父さんは亡くなりました。しょっちゅう体からガラス片が出てきて、亡くなったときお腹は真っ黒でした。当時は原因がわからないまま同じように亡くなる被爆者を見て、「原爆のガスにあたったからお腹が黒くなって死んだ」と推測しました。何年もたったのちに放射線のことを知り、爆心地近くで大量の放射線を浴びた父親は、体内組織を破壊され、内部から腐って亡くなったとわかりました。

父方の親戚とつながりがなくなったため、家を出ていかざるをえませんでした。広島駅付近の闇市で、始めは自宅に埋めていた甕に残った塩や農民や漁民から仕入れた果物や貝を売り、その後は陶磁器を売って生活しました。バラックの畳2畳の小屋に母子3人寝泊まりしました。生活はとても厳しく、お母さんは懸命に働き、休日は横たわったまま、全く笑顔を見せなかったそうです。もっと年を取ってからよく笑う明るい人に戻ったそうですが、原爆症の脊髄の痛みにずっと苦しみました。

清水さんも3歳から13歳までずっと原爆後遺症に苦しみました。頻繁にひどい下痢と腹痛におそわれました。同じような症状の被爆者を解剖した結果、放射能で細胞が破壊され、小腸の繊毛がなくなり、消化がうまくできないことが原因だとわかりました。また、清水さんは擦り傷も半年ぐらい治らず、しょっちゅう膿んだそうです。意欲もわかず、疲労感にさいなまれました。のちに「原爆ぶらぶら病」とよばれる症状が出ていたそうです。放射能で血小板が減ったため、血が凝固せず、寝ている間に鼻血がでて、布団が真っ赤に染まったことも多々ありました。

今回の収録で清水さんはご自身の体験だけではなく、原子爆弾の投下についての知識や、放射能による健康被害、戦後の生活やそれに関連したことなど教えてくださいました。私たちにとって初めて知ることばかりでとても勉強になりました。直接被爆の研究はあるが、黒い雨や放射能汚染された空気を吸ったことでなる内部被爆についての研究はまだないことや、放射能で汚染された野菜を食べていたことで癌や白血病、心臓病になる被爆者が多いことを、教えていただきました。病院に行くたびに、被爆した母親たちから生まれた奇形児の標本を見るうち、被爆した自分は子供を持つまいと誓い、「自分はどうせ早死にする」と自暴自棄になったときもあったそうです。「原爆は自分の人生を大きく変えた」とおっしゃいました。

「戦争は人の心もなにもかもなくしてしまう。絶対にあってはならないもの。」「広島に生きる意味を考えて、しっかり見つめて考えていってほしい」とメッセージをくださいました。
原爆のことを勉強してこられた清水さんや核兵器廃絶のために努力してこられた被爆者の方たちから学びながら、私たちも日々頑張っていこうと思いました。

ありがとうございました。
                                                   (高2大久保)

2016年6月17日金曜日

☆20160607 箕牧智之さん 証言収録☆

2016年6月17日金曜日 17:14
201667日に箕牧智之さんの証言収録を行いました。場所は広島女学院の放送室です。インタビュアーは高2の佐々木です。

箕牧さんは現在74歳で、被爆当時は3歳でした。当時の家族構成は、35歳の父と29歳の母と1歳の弟でした。父親は国鉄職員、母親は主婦でした。

86日、815分当時箕牧さんは、爆心地から17km離れた自宅前の道路で、弟と遊んでいました。お父さんは仕事で広島市内に行っていました。その時、原子爆弾が投下されました。箕牧さんは広島市の方でピカッとした稲妻のような光を見、大きな音を聞き、「雷か」と思いました。太陽が壊れたとも思ったそうです。箕牧さんは爆心地から遠い場所にいたので直接の被爆はしませんでした。その日の夕方、空からたくさんの紙が舞い降りてきました。その光景はとても不思議で印象的だったそうです。その日、お父さんをいつも通り駅まで迎えに行きましたが、帰ってきませんでした。口伝えに広島市内でひどいことが起きたと聞いたので、翌日から三日間毎日、お母さんは3歳の箕牧さんと1歳の弟を連れて、広島へお父さんを探しに行きました。見つけることはできず、泣く泣く家に戻るとお父さんは自力で家に帰っていました。9日のことでした。国鉄のレールをたどって歩いて戻ったそうです。爆心地近い広島市松原町の勤務地にいたにもかかわらずお父さんが助かったのは、作業着に着替えるために地下にいたためです。

箕牧さんはお父さんを探すために広島市内に入ったとき、大量の放射線を浴びました。残留放射能による入市被爆をしたのです。ずっと病弱な子どもで心臓が常におかしくしょっちゅう熱が出て、いつも疲労感があったそうです。戦後は壊滅し、職を失ったお父さんは田舎で農業や土木作業をしながらみなを養いましたが、貧しく厳しい生活だったそうです。箕牧さんは体が弱く意欲が低かったので、田舎に住む近所の人たちからは、「町のものは怠け者だ」と偏見で見られましたが、ずいぶんのちに原爆の後遺症だったと知りました。また、小学5年生のとき40度の熱がずっと続き、毎日注射したけれど熱がさがらず、もう助からないだろうと言われました。しかし、アメリカから輸入されたストレプトマイシンという注射によって助かりました。12月から3月まで4か月学校を休みましたが、なんとか進級できました。のちに、原爆の子の像のモデルとなった佐々木禎子さんやほかの被爆した子どもたちのことを知り、自分も同じような状態だったのだと思いました。また被爆2世は死産者や多指症など、共通の症状が現れやすいことなども知りました。

箕牧さんは被団協の副理事長を務めてらっしゃいます。被爆者の思いをいろいろな場所で伝え、証言活動もしていらっしゃいます。去年はNPT再検討会議へ行き、被爆者としてNYで核兵器廃絶のデモを行いました。以前アメリカでデモをしたときは沿道のアメリカ人が応援や参加をしたので、今回のデモもアメリカの新聞に載ったり、アメリカ人と一緒に行動したりできると期待していました。が、広島のTVや新聞記者しか取材に来ず、賛同者も現れず、非常に落胆されました。

それでも今回オバマ大統領が広島を訪問し、原爆資料を見て、献花をした姿に希望を持たれています。

箕牧さんは、戦争は人の命を簡単に奪うことができると悲しい顔でおっしゃっていました。外国人の土地や命を奪うことを是とし、過赤紙一枚で自国の若者を強制的に招集し、特攻や人間魚雷のように、彼らを人間としてではなく、武器として使い、戦争反対者はリンチをして黙らせていたと悲しそうにおっしゃいました。

箕牧さんはアメリカ人と話すときは日本の真珠湾攻撃について謝罪されるそうです。また、私たち若者は絶対将来戦争に巻き込まれそうになったら、戦争反対!と訴え、教師は教え子を戦場に送らないように、とおっしゃいました。

箕牧さんのお話を聞いて、今後戦争を繰り返さないためにも、自分たちにできることを最大限することが大切だと思いました。

(森下、金沢、山口)

2016年4月8日金曜日

☆20160331 岡田 恵美子さん 証言収録

2016年4月8日金曜日 15:53
 2016331日に岡田恵美子(おかだえみこ)さんの証言収録を行いました。場所は広島女学院高校、インタビュアーは高2の難波華子です。

 岡田さんは、193711日に生まれ、現在79歳です。被爆当時は8歳で国民学校に通っておられました。家族構成は、両親、4歳上の姉、5歳と3歳の弟が2人です。

 物心ついた時から戦争が始まっていたので、岡田さんは軍国教育を受けてこられました。「贅沢は敵」「欲しがりません、勝つまでは」などのスローガンに囲まれて育ってこられた岡田さんは、自分が男だったら軍隊に入りたいと思っておられたそうです。

 85日の夜、空襲警報が激しかったので、6日の朝は寝不足だったそうです。原爆投下時には、現在の東区の自宅でお母様と二人の弟と朝食をとっておられました。突然真っ暗になったので、岡田さんは、自分の家に焼夷弾が落とされたと思ったそうです。しかし、周りの家全部が瓦礫となっていることに気づき、そうではないと分かったそうです。(原爆のことについて知ったのは、岡田さんが大人になってからのことでした。)朝食時だったこともあり、あちこちから火が出て、それから3日間、広島は火の海に包まれたそうです。

 岡田さんは火の手から逃れるため、家を後にしました。今の曙町から若草町や光町の東練兵場を逃げていた時、瓦礫で足を挟まれてしまった女の子に出会います。火の手が女の子に迫ってきているのに足が抜けなくて「おかあちゃーん!」と泣き叫んでいたそうです。当時8歳だった岡田さんはその子を助けることができず、逃げてしまったそうです。「その子は焼け死んでしまったでしょう」と岡田さんは涙を滲ませながら語ってくださいました。

 「拾って食べるものもなかった。」すべて瓦礫となり、市内から瀬戸内海が見えるほどであった広島を、岡田さんはそう表現されました。「希望も何もなかった。」60年は草木も生えないだろうと言われていた広島にぺんぺん草が生えているのを見て希望をもらったそうです。

 岡田さんは、いろいろなところで被爆体験を証言されています。
「孫たちに私のような体験をしてもらいたくない。日本は70年間戦争をしてこなかったけれど、世界は今でも戦争や紛争が絶えない。私が何も行動を起こさなかったら、核戦争が始まるという危機感がある。」未来志向なお話をしてくださりました。

 私たちは、岡田さんの目で見てきた世界で起こっていることに関するお話を聞くことができました。生まれてから世話をされずそのまま大きくなり、飢餓を通り越して目が見えなくなっているチュニジアの子どもたち。軍隊の立派なパレードの背後でゴミをあさるインドの子どもたち。パキスタンのある子の夢は「家族と一緒に食事をすること」。

 「子どもは世界の宝物。命を大事に引き継いでいってほしい。」
世界の現状を見てきた岡田さんのこのメッセージはとても重みがありました。親が死んでいたら、自分はいなかったと考えると、命の大切さを強く認識します。
「アジアの国々が仲良くならないと世界平和は実現しない。」
まずは、日本に近い韓国、北朝鮮、中国と仲良くなるべく努力していきたいです。国家同士は、堅い頭で、一歩も譲らず、いがみ合っていますが、私たち国民の一人一人は、お互いの非を認め合い、受け入れることができるのではないかと考えています。


 平和活動を本気でやってきた方の貴重なお話が聞けてほうとうに良かったです。ありがとうございました。(難波)

2016年3月18日金曜日

☆20150718 川本 知さん 証言収録

2016年3月18日金曜日 12:42

 

 

2015718日に川本知さんの証言収録を行いました。場所は川本さんの自宅です。

インタビュアーは高2の大坪です。

 

川本さんは現在82歳です。被爆当時は12歳でした。当時の家族構成は母と叔母と三人の妹と一人の弟でした。爆心地から約2km離れた楠町に暮らしていました。お父様は戦争にとられボルネオ島の戦場へ出ていました。

 

8月6日、川本さんは爆心地から2km離れた学徒動員先の三篠の広島日産自動車工場で被爆しました。8時15分、警戒警報は30分前に解除されたので、みんな緊張から解放されていましたがB29の 爆音が聞こえました。「あ!B-29の爆音」と川本さんが言うと先生は

「今、警戒警報が解除されたばかりじゃ。敵戦機が斗飛んでいるはずがない。友戦機だ。」その会話何の前触れもなく、数千度の放射線が貫きました。オレンジ色と黄色と紫色が混ざった!B-29の爆音」 「今、警戒警報が解除されたばかりじゃ。敵戦飛んでいるはずがない。友戦機だ。」その会話中何の前触れもなく、数千度の放射線が貫きました。オレンジ色と黄色と紫色が混ざった閃光と「ターン!」と耳元に雷が落ちたような衝撃音。その瞬間にきのこ雲、その真下の暗黒と衝撃波。川本さんは5m吹き飛ばされトラックの下敷きになり、トラックの上には木造の二階建てが倒れのっていたそうです。

 

川本さんはかすり傷で済んだそうですが、先ほどまで話していた先生はたこのように真っ赤に焼けていたそうです。川本さんは北へ逃げようと太田川の斜面の草の上を這ったそうです。そこで母、妹、弟と再会しまし、新庄町の竹やぶに避難しました。。4歳の次男と5歳の三女はやけどを負っており水をほしがっていました。二人は「ミズーおかあちゃんミズー、ミズ頂戴―」と母に水を求めながら次第にうわごとも喋らなくなり、亡くなりました。

 

海軍でボルネオ島に出征していた父も昭和20年の4月に亡くなっていたことが2年後の公報で伝えられました。

 

 

川本さんは日本が無防備で戦争のできない国になってほしくないと言います。しかしまた、旧軍部のようなやり方ではなく、外交で問題を解決するべきだとおっしゃっていました。私たちはこれからも戦争の恐ろしさを伝え続け戦争が二度と起こらないように平和を訴えていきたいと思います。


2016年2月23日火曜日

☆20150607 庭木輝子さん 高林節美さん 証言収録

2016年2月23日火曜日 17:06
2015年6月7日に庭木輝子さんと高林節美さんの証言収録を行いました。今回は姉妹での収録でした。場所はご自宅です。インタビュアーは高2の並川です。


 庭木さんは大正13年10月10日生れの90歳で、高林さんは昭和2年3月1日生れの88歳です。被爆当時は、輝子さんが20歳、節美さんが18歳でした。当時の家族構成は、両親と三人姉妹の5人家族で、爆心地から35キロ離れた白木町で暮らしていました。お父様と輝子さんと節美さんは東洋工業(現在のマツダ)で働いていました。一番下の妹さんは学徒動員で、山口県に行っていました。


 8月6日の朝は、お母様とたまたま体調がすぐれなかったお父様を家に残し、輝子さんと節美さんはいつものように勤務地の東洋工業に向かいました。爆心地から約5キロ離れた位置にありました。輝子さんは更衣室にいたとき、節美さんは仕事につこうとしていた時に、原子爆弾が投下されました。輝子さんはロッカーの下敷きになり、窓ガラスの破片で頭をきり、一瞬気を失いましたが、すぐに上司に助けられました。節美さんはとっさに机の下に隠れました。二人とも何が起こったのかわからず、会社の近くにある変電所で

事故が起こったのかと思ったそうです。原爆投下直後、何回か空襲がありました。その後、市内からけが人をのせたトラックがやってきて、救護係だったお二人は、火傷を負った人に油を塗ったり、タオルを水で濡らして冷やしたりして治療をしました。その火傷は、湯たんぽのような水ぶくれになっていて、皮膚が垂れていました。「水をくれ。水をくれ。」と叫んでいた人、服が焼けて裸になった人、川に浮いていた人を目にしました。
 夕方家に帰るため、二人で歩いて広島駅に向かいました。広島駅の辺りは、壊滅状態で建物が何もなく、遠い己斐の方まで見渡すことができました。汽車は通っていませんでした。矢賀駅まで歩いて行くと、そこでは汽車が動いていました。人がとても多く、外側につかまっている人もいました。なんとか、乗車して家まで帰りました。
 家族全員、軽傷はありましたが無事でした。その後お父様は、8月6日に市内で建物疎開を行っていた同僚の安否を確認するために、市内に行き、入市被爆をしました。


当時は、被爆していることを知られると結婚できないといわれていたため、被爆のことは隠していました。そのため、原爆手帳は27年後の昭和47年に発行されました。お二人は特に原爆の後遺症はありませんでしたが、節美さんは現在、心臓の病を患っています。終戦後、生れた輝子さんの1人目の息子さんは、2歳のある日、突然白血病とおもわれる症状を発病後、日赤病院に入院し、ABCCというアメリカの調査団に血液検査をされました。まもなく亡くなりました。当時は原爆に関する情報に規制がかかっていたため、原爆症とは診断されませんでしたが、同じような症状で外傷のない子どもが多く亡くなっていたため、みな「原爆の毒にやられた」と噂していました。

 輝子さんと節美さんのお話を聞いて、当時は隠されていた原爆による影響を、被爆した本人だけでなく、まだ生まれていなかった子どもの命まで原爆は奪ったという事実や正しい知識と共に、伝えていくことが必要であるとわかりました。   
                                                    (和田、山口)

2016年2月10日水曜日

☆20151217 南肇さん 証言収録

2016年2月10日水曜日 17:13
20151217日に南肇(みなみ はじめ)さんのご自宅で証言収録を行いました。
インタビュアーは高2の山口安奈です。
 南さんは昭和4年11月3日生まれの86歳です。被爆当時は16歳でした。勉強が好きで、中学一年で班長を務めるほどしっかり者でした。ご両親と6人の妹さんの9人家族です。ご家族は爆心地から40キロ離れた安芸高田市で生活していましたが、南さんは広島市千田町の県立工業高校に通っているため寮生活を送っていました。
中学1年のはじめから戦争のため、勉強のかわりに学徒動員として飛行機の部品を作る工場(吉島羽衣町3丁目倉敷航空機製作所吉島工場)で働いていました。

 86日の朝は早くから頑丈な防護壁がある工場内の3階建の建物の2階の窓際に座って検査の作業をしていました。815分に原子爆弾が投下され、気が付いたときは爆風でとばされ、うつ伏せで倒れていました。あまりに一瞬の出来事だったので白い光線と爆風を感じたことしか覚えていないそうです。
防護壁も屋根もとばされ、空が見えました。手の甲に火傷を少し負っただけなので、はだしで走って必死で逃げることができました。3階にいた上司が下に落ちて苦しんでいましたが、自分ひとり、会社の防空壕に逃げることしかできませんでした。上司を助けることができないことを悔やんでおられました。また6月までは外で朝礼をしていたけれど、7月からは飛行機の数が足りないという理由から朝礼がなくなったので、屋外にいたため、死なずにすんだとおっしゃっていました。防空後の中で、のどの渇きと空腹との闘いました。夜が更け、暗闇の中、だれかが入った気配を感じました。朝になると高校生の女の子が亡くなっていました。なにもしてあげられなかったことが悔やまれました。
 2日目の夕方、お父さんが高田市から防空壕まで水筒をもって迎えに来てくれました。夏の暑さで水は腐っていましたが、2日間何も飲んでいなかったため、とてもおいしく感じました。
 4日目に友人を探すために聾唖(ろうわ)学校を訪れましたが、火傷をした人たちは薬を塗られて真っ白になっていたので、どれが友人なのか分かりませんでした。その友人は原爆投下直後すぐに亡くなったそうです。
 4日目の午後、4歳年上の友人と安芸高田市のご自宅へ歩いて向かいました。南大橋が壊れていたので鷹野橋に行き、現在の電車通りをひたすら歩きました。産業奨励館の前を通ったとき悲惨な光景を目にしました。電信柱に縛りつけられたまま亡くなっている捕虜のアメリカ兵を、日本人が仕返しにと殴っていました。その時は爆弾を落とした鬼畜米英と思ったけれど、後からかわいそうだと思いました。また、お腹がガスでパンパンに膨れた馬がそのまま倒れて死んでいました。寺町に行くと死体が山のように積み重なっているのを見ました。犬や猫でもあんな扱いは受けないと今も胸が痛むそうです。食べ物も飲み物もないなか、1日かけてようやく自宅にたどり着きました。

 市内にある学校は焼けたので、戦後はそのまま地元で百姓の手伝いをしました。そして「ガラスの里」に就職し、社歌を作詞しました。また、弁論大会に出場したりと戦前には発揮できなかった才能が開花しました。原爆投下直後は手に火傷を負う程度のけがでしたが19歳の時、赤血球に異常が見つかりました。74歳の時には前立腺がんで手術をするなど、何度かいろいろな病気で手術をされました。

 南さんは被爆証言は家族に頼まれても決して話さず今日まで、思い出さないよう努力をしてきましたが、毎年86日には一人で泣いていたそうです。本日の収録の前に南さんご夫妻はご両親のお墓にお参りし、初めて夫婦で原爆当時のことを話したそうです。証言中も何度も「やっぱり話すと記憶が戻って辛い。」と涙を流されました。ご家族も泣いていらっしゃいました。
 南さんの記憶には戦争が引き起こした悲惨な状況が鮮明に残っていました。70年たった今も自分の中で戦後は来ていないとおっしゃいました。私たちは戦争の傷を癒すことは簡単なことではないという事を改めて実感しました。私たちが平和な世界を創ることで、被爆者の方の心を少しでも癒すことができればいいなと思います。


山口 田村

2016年1月27日水曜日

☆20151109 笹口里子さん 証言収録

2016年1月27日水曜日 16:36
☆20151109 笹口 里子さん 証言収録
2015年11月9日、笹口さんのご自宅で証言収録を行いました。
インタビュアーは高1の中村です。

笹口さんは昭和6年生まれの84歳です。原爆当時は14歳でした。当時の家族構成はご両親、お姉さん、弟でお母さんと弟は島根県、お姉さんと笹口さんは広島電鉄の学校の寮で暮らしていました。
8月6日の朝、8時15分、笹口さんは寄宿舎の食堂で朝ご飯を食べていました。その時突然目の前がぱっと光り、笹口さんは気を失いました。意識を取り戻した時、周りには人が見当たらず真っ暗でした。一筋明るい光が見えたので、そこに向かって外にはい出しました。寄宿舎の外には体にガラスの刺さった人や泣いている大勢いました。笹口さんは大きなけがはなく腰だけが痛かったそうです。

当時の笹口さん(右)
その後、友達と2人で宇品の神田神社へ避難しました。神田神社では火傷をした人の治療を行ったおり、笹口さんは見るのが耐えられず公園に行きました。その後、先生から実践女学校(現在の広島修道大学附属鈴峯女子中学高等学校)へ避難するように指示され、原爆の被害の大きかった旧市街を抜けて、友達と一緒に実践女学校に向かいました。
実践女学校に向かう途中に被爆した人の行列を見たそうです。体は焼けており、亡霊のようでした。井戸に頭を突っ込んでいる人、川には上や下を向いたいる死体を見たそうです。その光景が忘れられないとおっしゃっていました。
その途中、一組の姉妹を見て、お姉さんの安否が気になりだしました。その後、実践女学校に着くと、そこでお姉さんと出会うことができ、それから2~3日は被爆した人の看病にあたっていました。


原爆投下から、3日後に電車は復旧しましたが、広島電鉄の
人から電車を動かしたいから車掌してくれないかと頼まれ、笹口さんは車掌の仕事を務めました。その時の電車の運賃は無料で、乗客は電車の復旧を喜んでいたそうです。笹口さんは今も電車が走っている姿を見ると良かったなと思う、女性の車掌さんを見ると懐かしいと話していらっしゃいました。電車は広島の復興の象徴であり現在も人々の大切な交通手段として受け継がていると感じました。

笹口さんは、戦争は残虐でこれほどつまらないものはないとおっしゃっていました。笹口さんのお話を聞いて、私たちはこれからも被爆者の方々のお話を聞き、その証言を世界に伝え、平和を訴えていきたいと思いました。(荒井)