2015年2月23日月曜日

☆20150222 羽山恒義さん 証言収録

2015年2月23日月曜日 18:08
 2015年2月22日(日)羽山恒義さんにインタビューしました。場所は羽山さん宅、インタビュアーは高1の山口です。


 羽山さんは、大正13年8月14日生まれの90歳です。被爆当時は20歳で、広島市昭和町に住んでおられました。家族構成は、羽山さん自身と両親と祖母の4人でした。羽山さんは当時、軍人で、数字で書かれた暗号を解く仕事をしておられました。

 8時15分、羽山さんが被爆されたのは、軍の施設の2階です。仕事にかかろうと準備をしていた時に建物の中で被爆したので、火傷はなかったけれど、ガラス傷を負いました。
  何度も気絶しながら、なんとか這い出し、潰れた屋根から地上に降りて、二葉山のそばにある被災者の収容所で意識を回復しました。その時は重症で、もう助かる見込みがない、燃やされる順番を待つ列に寝かされていました。そのままだと、生きながらにして、死体と判断され、燃やされた側になっていたはずです。が、ぎりぎりのところで、助かる見込みのある人たちの列に移され、命拾いをしました。だから、焼かれた死体のお腹が破裂する「ポーン」という音を聞いたことが今も胸を痛めているそうです。
羽山さんは自宅に歩いて帰る途中、亡くなっている人やひっくりかえっている馬などの光景を見たそうです数日たって、双葉山の収容所から己斐まで、焼け野原だったのを羽山さんは見て、涙が出たとおっしゃいました。

 羽山さんは今回私達に被爆体験を話してくださったのですが、一回目に証言収録をお願いしたときは、「つらい記憶を思い出したくない」と取材を拒否されました。羽山さんは、当時の出来事を思い出したくなかったのです。亡くなった知人や、爆風による障害物で逃げられず生きながら焼け死んでいった人とのことを思い、、建物疎開中に被爆し、そういう町内の人たちを救けながら、自身の火傷で救いきれなかったことを思って泣く父親のことを思って、涙されました。
また、羽山さんは、お国を守るために軍人として働き、自分は正義を行っていると思ってきましたが、原爆投下の悲惨な広島を見て、自分の行動は正義ではなかったと気づき、ショックを受けたそうです。

羽山さんは言います。
「戦争というほど悲惨なものはない
だから、戦争は絶対すべきでないのだ」と。


 私達戦争未経験者が戦争体験を聞いても、戦争体験者の目に映ったものと同じものが見えるようになるというわけではありません。しかし、今回私は、羽山さんの体験に寄り添うことが出来ました。

「おかげで焼き場にもっていかずに済んだ。
皆さんに同じ悲惨な経験をさせないために,
このヒロシマアーカイブを見たり、原爆についての写真を見たりして、今後生かしてほしい」


「人のために動きなさい。
 当たり前の生活に喜び、感謝の気持ちを持ちなさい。
 今生きている喜びがどれだけ大きいか!」

今回羽山さんのお話を聞いて、自分のためではなく、まわりの人のために行動して、その喜びを味わおうと思いました。今回は、貴重なお話を、ありがとうございました。 
(難波)

今回の羽山さんのように、今まで被爆体験をしてこなかったけれど、二度と戦争が起こらないように被爆体験を話そうと思った方は、広島女学院高等学校の「核兵器廃絶 署名実行委員会」へ、電話、メール、手紙などでお知らせください。日時を決め、証言収録をさせていただきます。

広島女学院高等学校 核兵器廃絶 署名実行委員会
〒730-0014 広島県広島市中区上幟町11−32
082-228-4131