2011年11月26日土曜日

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★資料館での調査(20111125)

2011年11月26日土曜日 8:38
2011年11月25日(金)午前

大学にある女学院資料館へ調査に行きました。「8月6日の転校生」のための調査です。

被爆前と被爆直後の女学院の写真や当時の制服を調べることを目的としましたが、職員の西原さんが熱心に協力してくださいました。







2階の展示室には、被爆直前の校舎が模型で再現されています。当時の写真や証言によって再現したものです。











歴代の制服も再現されていました。真ん中のもんぺとセーラー服を組み合わせたものが、被爆当時の女学院の制服だそうです。白いスカーフが女学院生であることを示しています。

この制服を何とか再現して撮影をしたいと考えています。大学の宗教センターに相談したところ、なんと演劇用のもんぺがありました!あとは、エーラー服の上半分を用意すれば、何とか原爆投下時の女学院生の姿が再現できます。















被爆直前の高等女学校部の校舎とチャペルの写真です。













左の写真は、チャペルでの礼拝の様子。8月6日の8時15分、礼拝が終わって生徒が退出をはじめた時、原爆が炸裂しました。
ちょうどチャペルから外へ出たところで被爆した生徒、倒壊したチャペルの下敷きになった生徒・・・・短い時間の違いで、被爆のしかたはそれぞれ違いました。











左の写真は、被爆直後の女学院校地の様子です。天皇の写真を収めていた建物だけが残っています。

上幟町の被爆直後の写真は非常に少なく、女学院資料館に展示してある2枚だけしか把握できていません。他に被爆直後の写真の所在をご存じの方は、是非教えてください。(矢野)

2011年11月19日土曜日

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★赤木直美さん証言収録(20111119)

2011年11月19日土曜日 16:20

2011年11月19日(土)

今日は雨の中、赤木直美さんの証言収録へ行ってきました。インタビュアーは高2の富山です。初めてのインタビュアーで緊張した様子でしたが、赤木さんの優しそうな笑顔で徐々に緊張がほぐれ、和やかな雰囲気の中でインタビューを始めました。









赤木さんは1930年10月11日に5人兄弟の長女としてお生まれになりました。私たちの大先輩であり広島女学院の生徒でした。なんと赤木さんは、広島女学院高等学校および大学の卒業生、第1回生です!

1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下される約一週間前まで広島市内の観音町に住み、学徒動員で財務局へ行っていました。しかし、原爆投下の約一週間前に広島から約100㎞離れたところにある、母の知人が住んでいる雄鹿原村へ疎開することになりました。母と、幼い妹と弟も一緒でした。
8月6日の朝、何かが光ったのを感じ外へ飛び出しました。その約30数秒後に、もの凄い爆音を聞きました。とにかく情報が何もなかったため何が起きたのか分からず、近所の人たちと加計の発電所が爆発したのではないか、と話していたそうです。飛んできたきた灰の中に交じっていた文書に鉄砲町と書かれたいたため、広島で何かが起きたのだ、と感じました。


観音町の教会にいた牧師のお父様を探すために、お母様が翌日薬などを持って、広島に向かったそうです。幼い弟妹と共に残された赤木さんは、心細くお母様の連絡をひたすら待ち続けていました。5日ぐらい経って、ようやくお母様から連絡が来て、お父様の無事を確認しました。お父様はブロック塀の側にいたため、熱線や光を浴びず足を骨折しただけで、手当もしてもらうことができたそうです。

赤木さんは、9月半ば過ぎに観音町の自宅や、牛田山にあった学校へいきました。その時横川から見た広島の地には何もなく、ただ比治山と似島が見えただけでした。

10月頃から牛田小学校を借りて、少人数の授業が再開されたそうですが、赤木さん自身は1月から復学されました。お父様は女学院の聖書の先生をなさっていたため、お父様と二人で現在の牛田山荘で暮らすことになりました。


その後、赤木さんは自身の女学院での生活について語ってくださいました。YWCAを設立したお話、授業を抜け出して近隣のYWCAへ遠征に行った話などを伺いました。友人たちと楽しい毎日を過ごしていたようで、私たちと同じ女学院生だったんだな、と実感しました。

最後に、今の女学院生に対して...
「高校で何かを掴んで、深めていけるようなことを見つけなさい。」と
おっしゃいました。

高校生の今、自分の興味のあることを見つけて、
それに向かって邁進していきたいです!!!

赤木さん、本日は本当にありがとうございました。(富山・室田・山岡・脇)





2011年11月9日水曜日

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★野村さんの証言動画収録(20111022)

2011年11月9日水曜日 15:45
2011年10月22日(土)高信寺で野村さんの証言収録をしました

今回のインタビュアーは高校1年の金森です。!!!初めて一年生がインビューをしました。緊張してたけど、よく出来ていました!!!お疲れ金森!!

今回の撮影は高信寺でした、高信寺に行くのは二度目なのでスムーズに行くことが出来ました。


最初にレフトハウスで被爆された野村さんお父様のの被爆証言CDを聞きました。爆心地に一番近い場所で生き残った方がいたのは知っていましたが、実際に証言を聞くのは初めてでした。

それから、野村さんご自身の話を聞きました。小学5年の時に小学校で掃除中に被爆しました。被爆直後は、竹藪で夜を明かしたり、お兄様が亡くなり、お母様の無事ばかり祈っておられてそうです。あと、隣人が親戚のように優しかったとおっしゃっていました。

野村さんのお話を聞いた後に、一人の男性が入って来られました。その方は原爆投下1年後に市内に入られたそうですが、土を掘って遊んだりしているうちに鼻血が止まらなくなったといいます。放射線の影響は、どのような形で現れるのか、まったく予測がつかないものだと思いました。(室田)

2011年9月24日土曜日

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河野敦子さん被爆証収録(20110917)

2011年9月24日土曜日 13:51
9月17日土曜日13:00~15:00河野敦子さんの被爆証言収録をしました。
インタビュアーは三浦です。
河野敦子さんは大正15年生まれで20歳の時に被爆しました。
被爆した場所は爆心地から1.3kmの天満町です。
河野さんは当時の状況を流れに沿って詳しく教えてくださいました。
「あの時は逃げることに必死だった。」
「あの死体だらけの光景を言い表すことはできん。」
話を聞く中で、その様子が頭に次々と浮かんできました。
しかし、想像もつかないような光景が、見慣れた広島に広がっていたと言うことを考えると、体が震えました。
「死にたいと思ったことはない。
でもあの日の事は話したくなかった。」とおっしゃっていました。
被爆した時の話をするのは、月日が経ったとしても、勇気がいることだと思います。
こうやって私たちに話して下さることはどんなに素晴らしいことなのだろうと思いました。
また被爆者の方は高齢となり、話を伺える機会も少なくなっています。
もっと多くの被爆者の方から、話を伺っていきたいです。

被爆証言収録を終えた後、紅茶などをいただいて座談しました。
河野さんは80代に見えないほどお綺麗で、お孫さんのことを楽しそうに話してくださいました。
また信仰心の強い方で、毎日神様にお祈りをしているそうです。信仰の大切さを実感しました。


河野敦子さん、貴重な時間をありがとうございました!

(三浦史織)






2011年8月11日木曜日

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★「8月6日の転校生を訪ねて」取材@宝塚(20110810)

2011年8月11日木曜日 15:26


2011年8月10日(水)

朝品川を発ち、新神戸に降り立った二人は、宝塚市のエデンの園に入居されている茂木さんを訪ねます。機材が多いので、新神戸からタクシーで1時間かけて移動しました。

余談ですが、途中東灘や 芦屋、夙川の山の手を通りながら、タクシーの運転手さんは有名人の家をあれこれ指さして教えてくれました。





エデンの園の集会室で、さっそく茂木さんのインタビューを開始します。インタビュアーは安藤さん、マイクの係は室田さんです。

茂木さんは、小川さんと共に西南女学院の高等女学校を卒業後1945年4月に広島女学院の専門部に入学されましたが、初めて登校したのは8月6日。礼拝が終わって教室に戻る狭い廊下で被爆しました。幸い講堂内と違って狭い廊下だったので隙間ができ、建物の下敷きにならずに済んだとのこと。

被爆後、関門トンネルを通って何とか小倉に戻り、西南女学院に戦後できた専門部に入学。英語の教員免許を取得されます。定年退職されて大阪に行かれたお父さんと共に大阪へ移り、大阪女学院高校の英語の先生になり、30年以上奉職されました。

今の若い人たちに言いたいことをお訊ねすると、「しっかり本を読んで、自分の判断力を身につけてほしい。自分たちが流されてしまったようにはなってはいけない。」とおっしゃいました。

取材を終えてロビーでタクシーを待っていると、ご自分の部屋から下りてこられた茂木さんが通りかかり、しばらく高2の二人と楽しく会話されていました。元女子高教師の本領発揮です。

今回4人の方のお話を伺い、その生活を伺っていて、4人が4人とも、それぞれ今の生活を十分楽しみ、充実させておられることに感動しました。原爆によって刻印された心や体の傷を見事に克服して、たくましく余裕をもって、それぞれの道を歩んでこられたのです。

3日間の取材が、今後どのような作品となって世に問われるか。
それは、今回取材を行った2人の生徒が、4人の方たちとの出会いからどのような影響を受けてどのように育っていくかと同じく、未知数です。
神の導きを祈るしかありません。(矢野一郎)

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★「8月6日の転校生を訪ねて」取材@池尻(20110809)

13:35
2011年8月9日(火)

今日は、世田谷池尻の小川さんのお宅で、水野さんと合流し、被爆証言の取材を行います。

水野さんは広島女学院在学中に被爆し、その後青山学院へ転学されました。小川さんは小倉の西南女学院から広島女学院専門部へ移って登校した初日に被爆。水野さんと小川さんは一緒に安佐南区の方へ逃げ延びて、戦後小川さんが被爆者手帳を申請する際に証人となって以来交流が続いています。

小川さんのマンションの前で、水野さんと生徒が対面。

まずは、小川さんと水野さんに対談をしていただき、お互いの記憶を補い合って「あの日」の出来事を思い出していただくところから、取材を始めました。お二人は和気あいあい、「ああだった」「いや、こうだった」と会話がはずみます。

午前の対談が終わったところで、小川さん・水野さんと生徒2人は、一緒に食事をとりながら、話をすることにしました。高2の生徒(16才と17才)と同じ年齢の16才(小川さん)、17才(水野さん)の時に、お二人が被爆されたことが確認され、お互い感慨深げでした。

午後はまず、小川さんの単独インタビューから取材を再開。インタビュアーは室田さんです。小川さんは、被爆後すぐに小倉へ戻られ、出来たばかりの西南女学院専門部へ入学されて、原爆症と闘いながら苦労して教員になられました。

続いて水野さんの証言収録。水野さんは結局広島女学院を卒業せずに青山学院に移られ卒業。さらに聖路加で看護の勉強をなさって、養護教員として働かれた半生のお話をうかがいました。ちなみに、小川さんのお連れ合い(1996年に他界)は、青山学院の神学科と聖和大学キリスト教教育学科で教鞭をとられた水野誠先生です。(矢野一郎)


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★「8月6日の転校生を訪ねて」取材@藤沢(20110808)

12:53
2011年8月8日(月)

3年越しの準備を続けてきた「1日だけの女学院生」改め「8月6日の転校生を訪ねて」の取材に、いよいよ出かけます。クルーは、アーカイブグループのリーダー室田さんと副リーダー安藤さん、五島ディレクターにスタッフの二川さん、引率の抹香先生と矢野です。NHKの井上記者と朝日新聞の加戸記者も同行します。この企画は、ヒロシマ・アーカイブのコンテンツの1つとする他、40分ほどのDVD作品を制作するためのものです。
なお、この企画は、広島国際文化財団様の「ヒロシマピースグラント2011」からのご支援を得て、実現したものです。

1枚めの写真は広島駅新幹線ホーム。道中の様子も撮影するので、早くも五島さんがカメラを回しています。

新幹線で品川に着き、手配したジャンボタクシーに乗り込んで神奈川県藤沢市に到着。藤沢駅近くのとても美しい町並みに、最初の証言者・遣沢さんのマンションがあります。取材する生徒は緊張しながら目的地へ向かいます。

マンションに到着。エントランスには、何と白いグランドピアノが置いてありました。しかもここに入るまで二重のセキュリティがありました。

そして、遣沢さんのお部屋へ。

ビデオカメラ3台と、スチールカメラ2台で撮影を始めます。インタビュアーは、安藤さん。五島ディレクターの厳しい指示が飛び、気の毒な安藤さんは少し引き気味です。頑張れ、安藤!

遣沢さんのお話は、やはりとても貴重なものでした。詳しくはアーカイブにアップされた証言を見ていただきたいと思いますが、戦後4年目にアメリカへ留学して3年間学んだ遣沢さんのバイタリティと「何でも見てやろう」精神には敬服しました。当時広島女学院に入学したような方は、勉学への大変な意欲をもっておられたことが、ビンビン伝わってきました。

「今の若い人が、夏休み中に『学校へ出てきなさい』と言われて、うきうき・わくわくするでしょうか? 私たちはとにかく学校が始まるというので胸を膨らませて登校したその日に、原爆の惨禍に巻き込まれたのですよ」とおっしゃった遣沢さんの言葉には、胸を打たれました。今の若い人たちは、恵まれているがゆえに、学校へ通える有り難さや、勉強できることへの感謝を忘れているのではないでしょうか。(矢野一郎)

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★卒業生U様からのメール(20110805)

12:23
2011年8月5日(金)

広島女学院中高のHPにヒロシマ・アーカイブに掲載する被爆証言者を募る広告を出したところ、嬉しいことに千葉県在住の卒業生U様が連絡をくださいました。たいへん貴重な内容ですので、以下、ご本人の許諾を得て、いただいたメールを転載いたします。

矢野先生
本日には突然ご連絡差し上げたにもかかわらずご丁寧にご対応いただきまして、ありがとうございました。メールも詳しくご説明いただきまして感謝申し上げます。

父が80歳を迎え老いていく中で、元気でいてくれてる今、何か原爆当時に見たこと感じたことを是非後世に残していってほしい、と思いながら、私自身でどうしていいか悩んでいたので、その手記や証言を掲載させてもらえるサイトがあると知って何か光が見えた気がします。父の体験記は手書きですので、まずはデータ化が必要なのですね。頑張ります。

また、証言の方も是非調整して収録してもらいたいです。その際は改めて相談させてもらいますので、どうぞよろしくお願い申しあげます。

父は7人兄弟ですが、両親・兄弟ともバラバラだったのに原爆で無事で翌日に集合し合えたこともすごい奇跡を感じており、それを地図で表現できたらと思っていたので、まさに父の妹達(私の叔母達)の体験談も是非収集しサイトに掲載してもらえたらいいなと思います。

女学院の平和教育の熱心さは今も誇りに思います。矢野先生の下で収録したり、東京へ取材に行く活動をされている女学院の後輩がいるなんて心強いです。私も女学院高校時代に碑めぐりもやったりしたのが懐かしいです。今は東京で働いていますが、こちらでの平和や原爆への意識のギャップをすごく感じていて、もどかしさも感じます。

こちらで何か平和や原爆の怖さの伝承のお手伝いができないかとも最近感じるようになりました。ではどうぞ今後ともよろしくお願いいたします。


矢野先生
こんばんは。夜分失礼致します。こちらこそ、メール返信ありがとうございました。矢野先生の温かいメールに心が和らぎます。感謝致します。

そうなんです、長男の父を筆頭に父は広島二中(現観音高)3年でちょうど8月6日から宮内に作業に行ったため偶然助かりました。その日は広島に帰れず、翌日草津から歩いて爆心地を通って金屋町までたどり着いたそうです。前日まで現平和公園の近くで作業していましたから正に一日の差です。そのかわり父の後輩が犠牲になりましたが…

父の妹、長女は市女(現舟入)1年でしたが、たまたま身重の母の代理で親戚の能美島 に野菜をもらいに行ったことで助かりました。でも、能美島から心配で船で宇品に戻り、一緒に行った三女(7歳)と比治山の多耳院の近くで野宿で一夜を明かしたそうです。 今の中学生が回りに被爆をして苦しんでいる人々の中、野宿をするなんて考えられない と思います。同級生は平和大橋袂の作業場所で大勢が犠牲になり、自分は学校をさぼったから助かったという申し訳の無さで苦しんできたそうです。

二男二女は疎開中で高陽町にいたので無事でしたが、被爆した被災した方々を目の当たりにしたそうです。四女や三男は5歳で金屋町にいましたが、家の中にいたので助かったそうです。母親(私の祖母)も身重で家の下敷きになりましたが、段原小学校の校長先生が引き揚げてくれたそうです
> 。
父親は皆実町の被服廠にいたため比治山の影となって無事だったそうです。

というわけで、U家は全員たまたま運良く無事だったわけですが、苦労をしてきているのは確かです。また、自分だけ助かったということや友達を助けられなかったことに苦しんだそうです。

すみません、いきなり矢野先生にメールでU家の当時の状況を書いてしまいました 。申し訳ございません。

父の兄弟全員健在ですが、確かに痴呆や高齢化が進んでおります。父も口数が少ない状 態です。今、急いで証言や手記のお願いをするしかないと痛感しています。

さて、碑めぐりですが東京や横浜からだったと思います。また写真部だったのですが、高1のときに国連へSUMMER CLOUDを贈呈するということになり写真部で原爆ドームの写真を撮り、暗室で焼き増しをして、BOOK MARKを作ったのを覚えています。懐かしいなぁ。

明後日、8月6日には例年どおり東京にて8:15に黙祷を行い、夕方に「この子たちの夏」という朗読劇を観に行く予定です。8月10日に帰省した際に、父とアーカイブの収録の話をしてみます。そして矢野先生にまたご相談させてもらいますので、よろしくお願いいたします。

・・・・・・
ヒロシマ・アーカイブは様々な被爆者の声や被爆にまつわる出来事を掲載していきますが、もっとも大切なことは、このような「声なき声」=「今まで語られなかった言葉」を掘り起こしていくことだと思います。改めて、襟を正さずにはおれません。私たちの作業は今後も続くのです。(矢野一郎)

2011年8月7日日曜日

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★広島女学院平和記念礼拝でアーカイブを紹介(20110806)

2011年8月7日日曜日 22:54
2011年8月6日(土)13:30~

広島女学院中高では、平和記念礼拝が行われました。中1・中3・高2が参加。



礼拝の,例年は被爆者が語られる部分で、アーカイブリーダーの室田さんのスピーチと渡邉先生のデモンストレーションがありました。高校2年生のスピーチと大学教員でヒロシマ・アーカイブの主催者のデモという組み合わせは、礼拝として冒険だなと危惧しながらプログラムを組みましたが、結果はとても良いものでした。

高齢化によって被爆者の証言がうかがえなくなりつつあるこの先、伝承者たちのメッセージが礼拝で語られるようになるのは必至。その先駆け的な礼拝でした。

7月10日の資料館での記者発表、国連大学でのデモンストレーションに続き、8月6日の広島女学院での発表が一応の大きな区切り。さすがの渡邉先生も、礼拝前かなり緊張しておられました。しかし、礼拝を終えた時、大きな仕事を為し終えた人特有の充実した表情をしておられました。

下は、この礼拝に出席してくださった盈進中高の皆さんとのお別れ前の記念写真。
この夏もたくさんの友情が生まれました。若い人たちの柔軟な感性がうらやましい・・・(矢野一郎)
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★街頭署名活動と渡邉先生デモンストレーション(20110805)

22:10
2011年8月5日(金)

この日、「核廃絶!ヒロシマ・中高生による署名キャンペーン」の街頭署名活動が行われました。

7月30日の結団式(松井広島市長、リーパー平和文化センター理事長来校)から始まった街頭署名活動には、福山盈進中高・沖縄尚学高校・修道中高・城北高校、広島学院高校・AICJ、そして広島女学院高校から、延べ400人近くの中高生が参加しました。このキャンペーンの実行委員のほとんどはヒロシマ・アーカイブの制作メンバーで、署名実行委員長はアーカイブ・グループの副リーダー、アーカイブ・グループのリーダーは署名実行委員会の副委員長です。


この夏は、7月30日・31日と8月4日・5日に合同の街頭署名をしました。昨年度までの3年間で約13万筆を集めました。今年は5万筆を目標に活動していますが、この夏の街頭署名では、とりあえず1万筆を目標にしました。

みんなとてもがんばり、3日半の合同署名では、1万2千筆以上の署名を集めることができました。協力してくださった皆さんに感謝いたします。

夏休み中、この合同街頭署名活動の他、各校で独自の街頭署名活動をします。また、世界中の方から署名が送られてきます。

ちなみに、この署名は平和市長会議を通じて国連に提出され、国連の常設展示となっています。
http://www.mayorsforpeace.org/jp/topic/2011/110328_CANTtenjiUN/110328_CANTtenjiUN.html



さて、この日の広島に渡邉英徳先生の姿がありました。署名活動に集まっている中高生に対して、ヒロシマ・アーカイブのデモンストレーションをしてくださったのです。






下の写真はその画面。現在の広島女学院の上空に多くの被爆者のお顔が浮いています。この方たちは、広島女学院で被爆した方たちです。それぞれのお顔をクリックすると、その方の被爆証言が閲覧できるのです。

このように、グーグルアース上の各被爆者の被爆地点にその方の顔写真があり、その顔写真をクリックすると被爆証言の文章や動画が閲覧できるようになっています。



このデモンストレーションはTBSの取材を受けました。その後広島市内を歩いた渡邉先生は、さっそくパルコ前で街頭署名に協力してくださいました。そのまま西へぶらぶら歩いて、被爆建物でもあるアンデルセンで遅めの昼食を済ませ、平和公園へ向かいました。広島の町並みと建物について、渡邉先生は並の広島人よりはるかに詳しくて驚かされますが、アーカイブ制作者としての入魂ぶりを思うと、それも当然のこと。

平和公園でも中高生たちが署名活動をしていました。女学院のアーカイブメンバーは、アーカイブ制作のための取材に関わらせていただき、実際に核兵器廃絶を訴える署名活動にも力がはいるようになりました。

昼間の活動の後、マツダ・スタジアムの巨人戦ピースナイターでパフォーマンスを行い、さらに合宿。

高校生のタフさに脱帽。(矢野一郎)

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★神戸女学院との交流会(その2、20110802)

21:31
2011年8月2日(火)

神戸女学院との交流会2日目です。平和公園の碑巡り案内のフィールドワークをしました。ヒロシマ・アーカイブに収蔵される「平和公園碑巡り」の収録で何回も上手な先輩の碑巡り案内を見ているので、アーカイブメンバーの後輩たちはなかなか堂に入った案内ぶりです。




左は爆心地の島病院。エノラ・ゲイは、T字型の相生橋を投下目標としましたが、上空約1万メートルから投下された原子爆弾は、目標から170メートルほどそれた島病院上空580メートルで炸裂しました。

ヒロシマ・アーカイブの画面を開くと、地球儀が広島上空となり、いったん停止します。その停止したところが、原爆を投下した瞬間のエノラ・ゲイから見下ろした広島なのです。ちなみに、ここが爆心地であることは、遺されていた建物の影の向きから割り出されました。




右の写真は、慈仙寺の被爆した墓石。数トンはあるこの墓石が浮き上がり、間に飛んできた小石が挟まっています。

また、周囲から40~50センチ低くなっているこの地面が当時の平和公園(当時は公園ではなく中島地区という繁華街だった)の地面の高さです。瓦礫の上に盛り土して、現在の平和公園の地面ができました。当然、そこには拾いきれなかった遺骨が埋まっていて、私たちはその上を歩いているのです。平和公園全体がお墓なのです。
碑巡りのあと、資料館内部の平山郁夫画伯の作品の前で記念撮影。また来年お会いしたいですね。(矢野一郎)
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★神戸女学院との交流会(その1、20110801)

19:49
2011年8月1日(月)

神戸女学院中高の有志36名が、広島女学院を訪ねてくださいました。高校チャペルで交流学習会。テーマは「ミッションスクールに学ぶ私たちの使命」です。アーカイブグループが中心になって対応しました。

最初に広島女学院大学学長の長尾ひろみ先生から基調講演がありました。問いかけられたテーマは、「<平和>の対義語は何か」。

みんな熱心に聞いています。ちなみに神戸女学院には制服がありません。
普段から、こんな格好で学校に通っています。向こう側で同じ服を着ているのが広島女学院。








広島女学院のプレゼンテーションでは、署名活動と並んで、ヒロシマ・アーカイブのことが紹介されていました。実際にデモンストレーションをしたのですが、操作を気をもみながら見ていたので、写真に撮るのを忘れていました。




夕食はお好み焼き。和気あいあい、すぐ打ち解けて食事をしていました。神戸女学院の生徒さんは、「夏休みが5日間短くなった!」と愚痴をこぼしていました。聞けば、昨年度まで7月10日~9月10日が夏休みだった(!)のが、今年度から9月5日までになってしまったとのこと。うらやましい話です。

「夏休み中補習はあるの?」と訊ねると、「ありますよ~、勉強しなかった人が学年で3人ほど呼び出されて・・・・」。それは、広島女学院では「補充」と言います。ほぼ全員が参加して夏休みの前半と後半に1~2週間行う授業を広島女学院では「補習」と言うのですが、神戸女学院の生徒さんにはそういう概念さえありませんでした。(矢野一郎)

2011年7月27日水曜日

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★中国放送(RCC)の取材を受けました(20110726)

2011年7月27日水曜日 20:40
2011年7月26日(火)

RCC(中国放送)の取材を受けました。8月4日(木)15:45~16:40放送の「イブニング・ふぉー」の特集のための取材です。田中俊男アナウンサーと船越一生記者、そして撮影スタッフの2名が来校されました。

まず、チャペルセンターで、室田委員長(高2)、小迫技術チーフ(高2)、民谷委員(高1)の3名がPCでヒロシマ・アーカイブを操作している場面の収録。3人とも上手に操作して、様々な発見をしていました。

カメラマンの方も後ろから一生懸命撮影しています。

その間も3人はあれこれ相談しながら、広島の今と66年前を探索しています。もちろん、愉快な内容ではなく、苦しみ・悲しみに満ちた広島の光景が映し出されています。しかし、それだけではなく、そういった悲惨な光景が今の広島と重ね合わせて表示されることに意味があります。

このしくみを構築された渡邉先生(首都大学東京)とその学生さんたちには、驚嘆するばかりです。

一人でも多くの方がこのサイトを訪れて、新たな知見を得ていただきたいと思います。



田中アナウンサーから矢野がインタビューを受けています。操作者の「AHA!」顔に注目。












この写真では、画面を見ている生徒が3人ともAHA!顔になっています。ヒロシマ・アーカイブは、訪れる皆さんをAHA!顔にするサイトなのです。

それは、広島のかつての惨状=人類史上の悲劇と、立派に蘇った現在の広島が同時に映し出されることで、見る者に希望を与えるという意味でのAHA!体験なのです。





さて、取材の進むこの部屋では、他の様々な作業にいそしむ生徒の姿がありました。

右の写真は、30日から始まる「核廃絶!ヒロシマ・中高生による署名キャンペーン」の結団式で決意表明する安藤委員長が、原稿の仕上げをしている様子。振り返る余裕もないほど真剣に考えています。











左の写真は、上記署名活動のために、小道具を作っている生徒です。

表に立って目立つ働きをする生徒もいれば、このように地道な手作業をする生徒もいる。いろいろな働きが一つになって、一つのプロジェクトが成り立ちます。生徒はそのことを学びつつあります。

ところで、この日の取材の様子や作業の様子を、200枚以上も写真に撮ったジイさん!あなたは何を遊んでまんのや(笑)。でも、その遊び心に満ちたジイさんの働きがあったからこそ、こうしてブログに写真を掲載することができたのです。(矢野一郎)