2015年5月2日土曜日

☆20150428 塩冶節子さん 証言収録

2015年5月2日土曜日 17:11
 2015428日に塩冶節子さんの証言収録を行いました。場所は広島女学院高校校舎の放送室です。インタビュアーは高2の伊藤です

 塩冶さんは1940328日生まれの75歳で広島女学院中学校の卒業生です。被爆当時は5歳でした。当時の家族構成はご両親、祖母、妹の5人家族で、爆心地から1.7キロ離れた段原町(現在の南区段原町)で暮らしていました。お父様は安芸郡坂町の発電所で働いていました。


86日の朝は、732分に空襲警報が解除されたので、ほっとした気持ちで祖母と自宅で遊んでいました。しかし、815分に原子爆弾が投下され、彼女はがれきの下敷きになりました。母に助けてもらったおかげで、家にいた4人は皆助かりました。比治山に避難する際、近所の方が「うちの子が助けられない。」と泣いていた光景が忘れられないそうです。6日の夕方、お父様と、はぐれていた祖母に再会し、その夜は比治山の登山口で一夜を過ごしました。その後2日間は爆心地から2キロの多門院()で過ごし、その後坂町のお父様の社宅で、戦後に生まれた弟2人といとこが加わり、総勢8人で幸せに暮らしていました。しかし、塩冶さんが中学1年生になった年の925日、全く外傷がなく活発で足が速かった妹さんが、当然体調を崩し、亡くなりました。たったの9歳でした。元気だった妹さんの突然の死に家族一同悲しみに暮れました。当初は原因が不明のまま、突然亡くなる子どもが多くいました。後から、原爆の放射能の後遺症ではないかと聞きました。今は明るく、快活な塩冶さんですが、思春期の頃は、妹や友人の死の影響を受け、今よりもずっと内向的だったそうです。

 その後、塩冶さんは、30歳〜59歳まで幼稚園の先生や障害者の子供たちの教師をしていました。被爆証言をするようになったのは10年前のことです。以前は、5歳の自分が話せることはないと思っていましたが、周囲からの後押しもあり、現在は被爆者教職員の会に所属しています。彼女にとって証言活動は神様からの使命であり、もう語れない亡くなったご家族や子どもたちの分まで、自分が証言をし、二度と罪のない子どもたちが突然、家族や友人を失うことがないように、という気持ちで行っているそうです。

 「これからも夢と希望を持って生きていきたい。広島の地に生きるあなたたちに平和を伝えていってほしい。」
とおっしゃいました。


 塩冶さんのお話を聞いて、私たちには平和活動を続ける使命あることが改めて分かりました。                                                                (山口)