2017年1月10日火曜日

☆20161115 近藤康子さん 証言収録☆

2017年1月10日火曜日 14:19
2016年11月15日に近藤康子さんの収録を行いました。場所は、広島女学院高等学校の放送室です。


近藤康子さんは現在75歳で被爆当時4歳でした。原爆がさく裂した時、康子さんは爆心地から約3・5キロに住んでいた母方の祖母の家にいました。その年の4月から、母と生後10か月の妹と疎開していました。父親はフィリピンに出征していたのでたまに帰省しても父とわからず、人見知りしたそうです。叔父の経営する配給所を母が手伝っていたので、そこにくる知り合いを父と思っていました。


8月6日の8時15分、家の近くの小川で遊んでいると突然ぴかっとあたりが光り、康子さんは気絶しました。気が付くと母に手を引かれて防空壕に逃げていました。妹は「ぎゃー」と叫んだため、口の中にガラスの破片が大量に入ったので、母が手を突っ込んで取りました。二人の口と手は血で真っ赤になりました。


原爆投下3日後に爆心地から1.8kmに住んでいた父方の祖母を探しに行きました。爆心地に近い場所は焼け野原で、あたり一面死体があったのでその死体を踏んで歩くしかありませんでした。その事を今でも申し訳なく思っているそうです。祖母はみつからなかったので、田中町の家に帰りました。爆風で水道が壊れ、噴出しているのがきれいだと思いました。幽霊のように手を前にした被爆者が大勢歩いていて母親はその看病をしていました。自分に「水をちょうだい」と声をかけた人がいましたが、何もできなかったことを忘れられないそうです。
祖母は江田島に避難していのでそこで再会し、呉に移りました。康子さんは一か月高熱と下痢が続き、どす黒い緑色の便が出て、腸が飛び出しました。母親が腸を押し込んでくれましたがとても痛かったそうです。妹も高熱とひどい下痢で苦しみ、這い這いすると下痢した血便が床に染みつきました。一か月したら二人とも体調が戻ったそうです。呉の保育園では「疎開っこ」「被爆者」といじめられ、家に引き返したこともありました。
父が兵役を終えてフィリピンから帰ってきたので以前住んでいた田中町にバラックを建てました。雨漏りがひどく、生活は苦しく、病気と貧困の戦いだったそうです。
 学区の竹屋小学校は全焼し、幟町小学校と合併しました。そこに通いました。最初、校舎が一部しかなかったので青空教室でした。給食が始まったのは4年生のことで脱脂粉乳とパンでした。
 6年生の時、康子さんの同級生が白血病で亡くなりました。突然のことで驚きましたが、このような事は当時決して珍しくなかったそうです。佐々木禎子さん同様、ABBCで解剖をされ、おなかが真っ黒だったと聞きました。のちに、被爆すると生殖器や内臓、消化器に異常が起こると知りました。
「被爆者はだらだら病があるから就職させたくない。奇形児が生まれるから結婚もさせたくない。」と差別されました。妹さんは広島では結婚できないからと山口で仕事をみつけ、そこで結婚して今も住んでいます。が、他県のほうが、理解してもらえないことが多く、原爆手帳を出すのも気兼ねだし、証言活動もしていないそうです。康子さんは大阪出身の男性と知り合いました。「君が被爆者でも気にしない。あのころは戦争でみんなが苦しんだ。戦地で負傷して職に就けない人たちもいる。」と言って、康子さんと結婚しました。
康子さんは今、資料館のピースボランティアの二期生として活動しています。証言活動を始めたのは、2年前です。子育てが終わったので、もう二度と私達のような人を出さないようにするために、とピースボランティアに公募し、今は証言や資料館と慰霊碑の案内をしていらっしゃいます。「恨みを通り越し、前向きにならないと平和は来ない。オバマ大統領には謝罪をするのでなく、今後核兵器廃絶のリーダーとして活躍してほしい。トランプさんにも核兵器を日本に持てという前に、まず広島の資料館に来て、現実を知ってほしい。」とおっしゃいました。

また私達若い世代には、「二度と戦争被害を繰り返さないため、署名活動や証言活動を継承し、英語で世界に発信してほしい。」とおっしゃいました。康子さんの言葉を胸にこれからも活動を続けていきたいです。

☆20161025 久保田圭二 証言収録☆

14:17
2016年10月25日久保田圭二さんの証言収録を行いました。場所は、広島女学院高等学校の放送室です。インタビュアーは高1の初鹿野です。

久保田さんは現在73歳です。2歳の時、爆心地から約1キロ離れた祖父母の家で被爆しました。当時の家族構成は、母親、祖父母、伯父、長女(姉)そして長男(久保田さん)でした。父親は山口県の陸軍で勤務していました。久保田さんの実家は爆心地近くの市役所の側だったのですが、建物疎開の対象になったので、祖父母の家に住んでいました。

8月6日午前8時15分、久保田さんは祖父母の家の2階にいました。久保田さんが踊り場でおしっこをしたため、床を拭きとっている祖母と被爆しました。一階にいた祖父と姉は家の下敷きになりましたが、祖父は自力で這い出し、姉と祖母を見つけ、助け出しました。久保田さんは見つからなかったので、3人は火の粉をよけるため、近くの橋の下に避難したそうです。久保田さんは爆風で庭にふきとばされ、意識を失っていたところを、祖父母の家に下宿し、いつもかわいがってくれていた大学生に助けてもらいました。家族とはぐれたため、大学生の実家である呉に一緒に避難させてもらいました。一週間後に久保田さんが帰ってきたとき、家族は、久保田さんが焼け死んだものと思っていたのでとても驚いたそうです。

6日は、母親は、建物疎開の勤労奉仕に出ているときに被爆し、顔がわからないほどの半身やけどをして帰宅しました。病院が機能していなかったため、検疫所に運ばれましたが、4日後の10日に亡くなりました。父親は山口の陸軍に所属していましたが、運悪く8月5日に爆心地から300mあたりにある広島の西練兵所に出張で来ていて、被爆しました。下半身にやけどを負い、可部に運ばれましたが、その日のうちに亡くなりました。同僚がお骨を自宅に持ってきてくださいました。

両親を亡くし、原爆孤児になった久保田さんは母方の祖父母に、お姉さんは子どもを亡くした父方の親戚に引き取られ、別々に暮らすことになりました。小学生になって時々お姉さんが祖父母の家に遊びに来てくれましたが、いつも喧嘩になっていたそうです。いつも空腹だったので、祖父の店のお菓子を食べて叱られたり、女子生徒の給食をわけてもらったりしました。「当時は両親そろっていること自体が珍しかったし、祖父母がいるだけましだと思っていたし、みんなが貧しかったので特に差別もみじめさも感じなかった。」と久保田さんは貧しくも楽しかった少年時代のエピソードをたくさんお話してくださいました。

呉にしばらくいたおかげか、久保田さんは原爆の後遺症に悩まされることはなく、自分で貯めたお金で高校を卒業し、銀行に就職しました。とはいえお金がなく、卒業が2年遅れたことを同級生に馬鹿にされたので、その同級生よりもいいところに就職しようと奮起し、銀行の金融官を目指しました。就職試験で「君は高卒で家も親もない。それでも勤められるか。」と言われたので、「親がいなくても本人次第です。今までも親がなくてもやってきたし、この銀行でもトップを目指します。」と言い、合格し、退職するまで勤められました。
尾道在住の理想の女性に出会ったので、結婚を申し込んだら、彼女の両親に被爆者だからと反対されました。でも、無事結婚し、家も建て、退職後は、夢だったレストランを経営し、幸せな生活をされたそうです。
65歳で店をやめ、離ればなれに生活した姉との時間を持とうと、二人でピースボートに乗りました。ニューヨークに滞在しているときに「被爆証言をしてほしい」と頼まれました。2歳だったため、あまり記憶がないので同室のお姉さんの話を聞きながら、何を話すか整理し、統計や事実をリサーチして資料を作成し、話しました。それが久保田さんにとっては初めての証言活動となりました。また、それ以降、ピースボートでは被爆者が証言をするのが慣例となったそうです。

690人でいろいろな国籍の人が乗っているピースボートで証言をする中、思いを伝える難しさを感じられたそうです。アメリカ人に「原爆がなければもっと多くの日本人が死んだはずだ。」と言ったので、久保田さんは「原爆で亡くなった人の数はほんとうに多いので、それ以上の人が死ぬ戦争がどのようなものかは自分には想像がつかない。でも私達ではなく当時の司令官がしたことで、解釈は人それぞれだからこれ以上の議論はやめよう。」と答えたそうです。
「戦争は国と国との喧嘩であって一個人が始めたわけではない。戦争をやると決めた人たちは戦場にはいかない。不可抗力で巻き込まれた国民、特に若者が戦場に送られる。両親を奪ったアメリカを憎いとは思わないが、日本の真珠湾奇襲攻撃は軍艦を狙ったのに対し、アメリカは東京や神戸など民間にも爆弾を落としたので、国際法違反だとは思っている。 今も日本に戦争をしようとするお偉いさんがいる。自衛隊が戦争に参加するようになったら自衛官になる人は減り、また徴兵制が導入されるようになると思うと恐ろしい。」
とおっしゃいました。


両親を原爆で亡くし、つらい経験もたくさんしたはずなのにとても前向きに生きていらっしゃり感銘を受けました。「人生はいつでも今が一番。人生はいつもこれから。自分の命は大切にしよう。」とおっしゃっていました。この言葉は原爆孤児になり、苦労をしながらも前向きに、自分の人生を責任もって計画し、努力し、目標を達成してきた久保田さんだからこそ言えるものだと思います。被爆体験ばかりでなく人生観も学べてよかったです。これからは戦後の復興中の広島についての紹介もしていきたいと思いました。久保田さんと同じような境遇の子どもをつくらないためにも、私達なりの平和活動を頑張っていきたいです。

☆2016910 切明千恵子さん 証言収録☆

14:10
2016年9月10日に切明千枝子さんの証言収録を行いました。場所は、広島女学院中学・高校学校の放送室です。インタビュアーは高1の水野です。

切明さんは現在86歳です。被爆当時は15歳、私たちと同じ高校1年生でした。当時の家族構成は、父、母、長女である千枝子さん、次女、双子の末っ子、そして祖母の7人でした。当時8歳だった双子の妹たちは、安佐南区のお寺に学童疎開していたので被爆はしませんでした。

当日、千枝子さんはタバコ工場に動員されることになっていました。「なんでタバコなんか」と反発する生徒に、先生は「心身ともに疲れ切った兵士にとってタバコは、一服吸って元気を出すもの立派な必需品だ」と言いました。当時365日働く通年動員という法律が施行され、毎日立ちっぱなしで働いたので、千枝子さんは足を痛め、7月の終わり頃から通院していました。6日の朝も7時に出勤し、朝礼で東方遥拝をした後、8時頃工場を出て、病院に向かいました。途中の橋を渡る前に少し休もうと思い、近くの小屋の軒下に入った瞬間、強い光が目に入り、爆風で地面に叩きつけられ、気を失いました。意識が戻ると小屋の下敷きになっていました。幸い、自力ではって出ることができました。空襲警報も警戒警報も解除されていたので何が起こったかわかりませんでした。

最初は、真っ暗でしたが、だんだん明るくなり、周りが見えるようになりました。たった今歩いてきた道沿いに並んでいた家はつぶれて、渡ろうとしていた橋の奥には、燃えている服を着て走って来る人々やまだ火の手の上がっていない南へと走って行く人々が見えました。それは建物疎開に動員されていた中学1・2年生達でした。

千枝子さんは、タバコ工場に戻りました。道らしきものはどこにもないので普段は15分の距離を50分かけて、なんとか引き返しました。しかし、工場には誰もいませんでした。1人だけはいつくばって、頭から血を噴出している友達が出てきました。ガラスの破片が首に沢山ついていたため、千枝子さんは応急処置を施しました。「あなたもけがをしているわ。」と言われ、千枝子さんは自分もけがをしていたことに初めて気が付きました。その友達に手当てしてもらいました。宇品の方にはまだ火の手が及んでいなかったので、宇品にある学校へ向かいました。校舎は無事で、他の1・2年生も続々と帰ってきました。ひどい火傷を負っている生徒も多く、先生が油を塗ってあげたそうです。しかし、「痛い」「熱い」「お母さん」などと言いながら、亡くなり、校庭で荼毘にふされました。千枝子さんも、その手伝いしました。壊れた校舎を薪にし、暁部隊にもらった重油で死体を焼くと、内蔵の破裂する音がしたり、神経が反応して手足が動いたりしたので「まだ生きているのかも」と動揺したそうです。遺骨をわら半紙につつみ、駆け付けた家族に渡しながら、「私は生き残ってごめんなさい。」とひたすら謝ったそうです。その時の様子を千枝子さんは、目に涙をためながら話してくださいました。「私たちは戦前おいしい物も食べた。このとき死んだ下級生たちはずっと戦争のため年中おなかをすかせ、勉強もできず、重労働をさせられ、全身やけどで死んでいった。かわいそうでやりきれない。亡くなったものも生き延びた者もみんな不幸だ。」とおっしゃいました。千枝子さんは9月に急性原爆症を患いました。外傷がなくても内部被爆でなくなる人が多かったので怖かったそうです。が、年があけるころ、少しずつ回復し、髪も生え、なんとか生き延びました。が、のちに子宮がんや卵巣腫瘍になりました。今も甲状腺の異常で毎日ホルモン剤を飲み続け、頻繁に体調を崩しています。18歳までに放射能を浴びると甲状腺に異常ができると聞きました。母親型の親戚は69人全滅で骨もみつかっていません。拾いきれない骨が盛土で埋められたままの平和公園は千枝子さんにとってはお墓同然で、今も「ごめんなさい」と思いながら歩いているそうです。爆心地付近は繁華街だったので一般市民の犠牲者も多かったのに、「公園だったから被害が少なくてよかった」と勘違いしている人がいるのが悲しいそうです。祖母はずっとアメリカを恨んでいましたが、千枝子さんは年を重ねるうちに、「恨みを恨みで返してはいけない。報復より二度と戦争を起こさない努力をするほうが大事だ。」と考えるようになりました。

千枝子さんはさんは、私たち若者へのメッセージとして「71年自衛隊は誰かを殺したり殺されたりしていない。でも集団的自衛権が容認された今、同じ人間をまた敵と呼んで殺しあう時代が迫っているようで恐ろしい。戦争は一度はじめたらなかなかやめられない。せっかく生まれてきたのだから、戦争なんかで殺されないでほしい。犠牲になるのは一般市民。加害と被害両方の歴史となぜ戦争が起こるかをしっかり勉強し、自分たちが声をあげて、戦争を阻止し、生きとしいけるものが平和に共存する世の中にして、幸せに生きてほしい。」とおっしゃいました。負の歴史をしっかりと学んで、今の社会の平和さ、大切さを知り、この平和を謳歌したいと思います。        

2016年7月14日木曜日

☆2016322 有馬静江さん、片岡絹子さん 証言収録☆

2016年7月14日木曜日 10:52
2016322日に有馬静江さん、片岡絹子さんの証言収録を行いました。場所は、広島女学院中学・高等学校の図書室です。インタビュアーは高1の大久保です。

有馬さんは現在81歳、被爆当時は10歳でした。片岡さんは現在78歳、被爆当時は8歳でした。お二人は姉妹で、以前ヒロシマ・アーカイブの証言収録に協力してくださった、川本 知さんの妹さんです。(http://jogakuin.mapping.jp/2016/03/blog-post.html)当時の家族構成は、母と長男(川本さん)、次男、三女、そして叔母の7人で、お父様は、出兵していました。お二人は、爆心地から2㎞離れた楠町3丁目に住んでいました。

86日午前815分、お二人は、自宅近くの路地で遊んでいた時に被爆しました。原爆炸裂時は、火事かとおもったそうです。そして、瓦が飛んできて、砂ぼこりで辺りがだんだんと暗くなり、見えなくなりました。瓦やガラスが二人を襲い、血を流しながら、家に帰りました。家は無事でしたが、母親から土手の方へ逃げるように言われ、二人で土手に行きました。その後、母と弟、妹、また、学徒動員されていた兄が合流しました。そして、みんなで、長束町の竹やぶへと避難しました。

その日、86日の夜に弟が、そして翌日、7日の昼に妹が亡くなりました。弟と妹は、投下当時、母と一緒に隣の家から帰るところで、母よりも先に玄関を出たため、日向にいました。そのため、熱線を浴び、全身ひどい火傷を負っていました。竹やぶの中で、ござの上に寝かせているとき、「苦しい。水が欲しい。」と言っていました。しかし、水を飲ませたら死んでしまうと聞き、水をあげることができず、つらかったとおっしゃっていました。

お二人のけがは、最初は出血がひどかったものの、片岡さんの頭に入っていた瓦を取った時以外、医者にかかることはなかったそうです。しかし、時がたち「原爆を受けた人はお嫁にいけない。」という言葉を聞き、「受けたくて受けたのではないのに…」と思ったという、つらい経験もお話ししてくださいました。

収録の最後に、戦争は、絶対にやってはいけないものだと、何度もおっしゃっていました。また、「アメリカは恨んでいない。戦争を恨んでいる。」というお二人の言葉は、私の心に響きました。そして、お二人が私たち、若い世代に望んでいる「贅沢ではなくても、穏やかな・平和な日々を送ってほしい。」という思い。この日々の実現に向けて、少しでも私にできることは、この活動を続けていくことなのだろうと思いました。

2016年6月27日月曜日

☆20160507 清水弘士さん 証言収録☆

2016年6月27日月曜日 16:50
201657日に清水弘士(しみずひろし)さんの証言収録を行いました。場所は広島女学院高校、インタビュアーは高2徳弘有香です。

清水さんは1942628日生まれで現在73歳です。被爆当時は32か月弱で、爆心地から1.6km離れた広島市吉島町(現広島市中区吉島町)で被爆されました。家族構成は、父、母、10歳上の兄です。

原子爆弾が投下される前日194585日(日)、夜は空襲警報が鳴っていました。普通は警報がなると人々は家から出て防空壕に逃げますが、広島では警報が鳴っても爆弾が落とされなかったため、避難しない人も多かったそうです。86日以前に広島に爆弾が落とさなかったのは、原子爆弾の威力と被害をアメリカが調べるためだったと言われています。

86日の朝7時過ぎに警報が鳴りましたが、731分に解除されたので、お父さんは爆心地から約1kmの広島県農業会(現JA)に出勤しました。お兄さんは、遠く離れた庄原の寺に農村動員で寄宿していました。清水さんはお母さんと二人で爆心地から1.6kmにある吉島町の自宅にいました。庭で飼っていたウサギにエサをやり、遊んだ後、家に入った瞬間、爆発しました。大きな音がした瞬間、お母さんは清水さんを抱えてしゃがみました。意識が戻ると倒壊した家の中にいたので、お母さんは5分から10分かけて、屋根を突き破り、清水さんを引き上げ、抱きかかえて、避難場所に指定されていた吉島刑務所へ逃げました。逃げる最中、清水さんはお母さんに「べべ(洋服)は?飯台は?ミシンは?うさちゃんは?」と聞いたそうです。清水さんは着ていたはずの服が脱げ、裸でした。洋服を作る内職をしていたお母さんにとって大事なミシンやうさぎを置いて逃げたため、幼心にも異変が起こったとわかり、心配したそうです。空は、朝なのに夕暮れのようだったこと、そして人のかたまりが逃げていたことを覚えていらっしゃいます。清水さん母子は川沿いに南に向かって逃げたため、爆心地での惨状は見ずにすみました。が、翌日父親を捜しに勤務先に行く途中で、たくさんの川に浮く死体を見ました。勤務先で生存者のリストに父親の名前がなかったので、お母さんは亡くなったと思い、瓦礫に向かって手をあわせました。その姿を今も鮮明に覚えているそうです。

幸運にも、昼ごろ父親が戻ってきて再会できました。

お父さんは、原爆投下時、仕事を始めようと机についた瞬間吹き飛ばされました。出納係の仕事だったので、閃光で窓口の金網の痕が顔に焼き付き、全身火傷しました。爆心地から1kmで被爆されましたが、「ドーン!」という音は聞かなかったそうです。この証言は、爆心地付近で被爆された方に共通しています。ガラス窓が割れた中に、倒れていました。気が付いたときは、3000度といわれる熱線と爆風がまたたくまに広がったといわれる中、お父さんも炎の竜巻で囲まれていたので、必死で池の中に逃げました。火が収まり、赤十字病院に向かう途中で意識を失っているところを誰かに助けられたらしく、翌朝、赤十字病院の玄関前で意識を取り戻し、その後、家族と再会しました。

7日の夕方、8km離れた草津に住む叔父さんが助けに来たので、家族3人で草津に避難しました。お兄さんと再会を願い、お母さんは自宅付近の刑務所に一度戻り、壁に草津にいると伝言を残しました。草津には食べ物がなかったので、4日後、母親の姉が嫁いだ山口県の大島に疎開しました。再度刑務所の壁に山口に行くと伝言を残しましたが、お兄さんには会えませんでした。市内には腐敗した死体や死体を焼くにおいが充満し、普段より大きく刺す力が強いハエが大量発生していました。生き残った人のやけどに群がり、卵をうみつけるので、みな体中に湧く蛆虫に苦しんだそうです。

疎開先の山口でも食料が不足したので、迷惑をかけられないと約1か月後、広島に戻りました。お父さんは体が弱って動けなくなっていました。マツダスタジアムの近くにあった叔父の半壊状態のアパートをなんとか直し、916日から住み始めました。9月下旬に帰ってきたお兄さんと4人で暮らしていましたが、原爆投下後から2か月後の108日、お父さんは亡くなりました。しょっちゅう体からガラス片が出てきて、亡くなったときお腹は真っ黒でした。当時は原因がわからないまま同じように亡くなる被爆者を見て、「原爆のガスにあたったからお腹が黒くなって死んだ」と推測しました。何年もたったのちに放射線のことを知り、爆心地近くで大量の放射線を浴びた父親は、体内組織を破壊され、内部から腐って亡くなったとわかりました。

父方の親戚とつながりがなくなったため、家を出ていかざるをえませんでした。広島駅付近の闇市で、始めは自宅に埋めていた甕に残った塩や農民や漁民から仕入れた果物や貝を売り、その後は陶磁器を売って生活しました。バラックの畳2畳の小屋に母子3人寝泊まりしました。生活はとても厳しく、お母さんは懸命に働き、休日は横たわったまま、全く笑顔を見せなかったそうです。もっと年を取ってからよく笑う明るい人に戻ったそうですが、原爆症の脊髄の痛みにずっと苦しみました。

清水さんも3歳から13歳までずっと原爆後遺症に苦しみました。頻繁にひどい下痢と腹痛におそわれました。同じような症状の被爆者を解剖した結果、放射能で細胞が破壊され、小腸の繊毛がなくなり、消化がうまくできないことが原因だとわかりました。また、清水さんは擦り傷も半年ぐらい治らず、しょっちゅう膿んだそうです。意欲もわかず、疲労感にさいなまれました。のちに「原爆ぶらぶら病」とよばれる症状が出ていたそうです。放射能で血小板が減ったため、血が凝固せず、寝ている間に鼻血がでて、布団が真っ赤に染まったことも多々ありました。

今回の収録で清水さんはご自身の体験だけではなく、原子爆弾の投下についての知識や、放射能による健康被害、戦後の生活やそれに関連したことなど教えてくださいました。私たちにとって初めて知ることばかりでとても勉強になりました。直接被爆の研究はあるが、黒い雨や放射能汚染された空気を吸ったことでなる内部被爆についての研究はまだないことや、放射能で汚染された野菜を食べていたことで癌や白血病、心臓病になる被爆者が多いことを、教えていただきました。病院に行くたびに、被爆した母親たちから生まれた奇形児の標本を見るうち、被爆した自分は子供を持つまいと誓い、「自分はどうせ早死にする」と自暴自棄になったときもあったそうです。「原爆は自分の人生を大きく変えた」とおっしゃいました。

「戦争は人の心もなにもかもなくしてしまう。絶対にあってはならないもの。」「広島に生きる意味を考えて、しっかり見つめて考えていってほしい」とメッセージをくださいました。
原爆のことを勉強してこられた清水さんや核兵器廃絶のために努力してこられた被爆者の方たちから学びながら、私たちも日々頑張っていこうと思いました。

ありがとうございました。
                                                   (高2大久保)

2016年6月17日金曜日

☆20160607 箕牧智之さん 証言収録☆

2016年6月17日金曜日 17:14
201667日に箕牧智之さんの証言収録を行いました。場所は広島女学院の放送室です。インタビュアーは高2の佐々木です。

箕牧さんは現在74歳で、被爆当時は3歳でした。当時の家族構成は、35歳の父と29歳の母と1歳の弟でした。父親は国鉄職員、母親は主婦でした。

86日、815分当時箕牧さんは、爆心地から17km離れた自宅前の道路で、弟と遊んでいました。お父さんは仕事で広島市内に行っていました。その時、原子爆弾が投下されました。箕牧さんは広島市の方でピカッとした稲妻のような光を見、大きな音を聞き、「雷か」と思いました。太陽が壊れたとも思ったそうです。箕牧さんは爆心地から遠い場所にいたので直接の被爆はしませんでした。その日の夕方、空からたくさんの紙が舞い降りてきました。その光景はとても不思議で印象的だったそうです。その日、お父さんをいつも通り駅まで迎えに行きましたが、帰ってきませんでした。口伝えに広島市内でひどいことが起きたと聞いたので、翌日から三日間毎日、お母さんは3歳の箕牧さんと1歳の弟を連れて、広島へお父さんを探しに行きました。見つけることはできず、泣く泣く家に戻るとお父さんは自力で家に帰っていました。9日のことでした。国鉄のレールをたどって歩いて戻ったそうです。爆心地近い広島市松原町の勤務地にいたにもかかわらずお父さんが助かったのは、作業着に着替えるために地下にいたためです。

箕牧さんはお父さんを探すために広島市内に入ったとき、大量の放射線を浴びました。残留放射能による入市被爆をしたのです。ずっと病弱な子どもで心臓が常におかしくしょっちゅう熱が出て、いつも疲労感があったそうです。戦後は壊滅し、職を失ったお父さんは田舎で農業や土木作業をしながらみなを養いましたが、貧しく厳しい生活だったそうです。箕牧さんは体が弱く意欲が低かったので、田舎に住む近所の人たちからは、「町のものは怠け者だ」と偏見で見られましたが、ずいぶんのちに原爆の後遺症だったと知りました。また、小学5年生のとき40度の熱がずっと続き、毎日注射したけれど熱がさがらず、もう助からないだろうと言われました。しかし、アメリカから輸入されたストレプトマイシンという注射によって助かりました。12月から3月まで4か月学校を休みましたが、なんとか進級できました。のちに、原爆の子の像のモデルとなった佐々木禎子さんやほかの被爆した子どもたちのことを知り、自分も同じような状態だったのだと思いました。また被爆2世は死産者や多指症など、共通の症状が現れやすいことなども知りました。

箕牧さんは被団協の副理事長を務めてらっしゃいます。被爆者の思いをいろいろな場所で伝え、証言活動もしていらっしゃいます。去年はNPT再検討会議へ行き、被爆者としてNYで核兵器廃絶のデモを行いました。以前アメリカでデモをしたときは沿道のアメリカ人が応援や参加をしたので、今回のデモもアメリカの新聞に載ったり、アメリカ人と一緒に行動したりできると期待していました。が、広島のTVや新聞記者しか取材に来ず、賛同者も現れず、非常に落胆されました。

それでも今回オバマ大統領が広島を訪問し、原爆資料を見て、献花をした姿に希望を持たれています。

箕牧さんは、戦争は人の命を簡単に奪うことができると悲しい顔でおっしゃっていました。外国人の土地や命を奪うことを是とし、過赤紙一枚で自国の若者を強制的に招集し、特攻や人間魚雷のように、彼らを人間としてではなく、武器として使い、戦争反対者はリンチをして黙らせていたと悲しそうにおっしゃいました。

箕牧さんはアメリカ人と話すときは日本の真珠湾攻撃について謝罪されるそうです。また、私たち若者は絶対将来戦争に巻き込まれそうになったら、戦争反対!と訴え、教師は教え子を戦場に送らないように、とおっしゃいました。

箕牧さんのお話を聞いて、今後戦争を繰り返さないためにも、自分たちにできることを最大限することが大切だと思いました。

(森下、金沢、山口)

2016年4月8日金曜日

☆20160331 岡田 恵美子さん 証言収録

2016年4月8日金曜日 15:53
 2016331日に岡田恵美子(おかだえみこ)さんの証言収録を行いました。場所は広島女学院高校、インタビュアーは高2の難波華子です。

 岡田さんは、193711日に生まれ、現在79歳です。被爆当時は8歳で国民学校に通っておられました。家族構成は、両親、4歳上の姉、5歳と3歳の弟が2人です。

 物心ついた時から戦争が始まっていたので、岡田さんは軍国教育を受けてこられました。「贅沢は敵」「欲しがりません、勝つまでは」などのスローガンに囲まれて育ってこられた岡田さんは、自分が男だったら軍隊に入りたいと思っておられたそうです。

 85日の夜、空襲警報が激しかったので、6日の朝は寝不足だったそうです。原爆投下時には、現在の東区の自宅でお母様と二人の弟と朝食をとっておられました。突然真っ暗になったので、岡田さんは、自分の家に焼夷弾が落とされたと思ったそうです。しかし、周りの家全部が瓦礫となっていることに気づき、そうではないと分かったそうです。(原爆のことについて知ったのは、岡田さんが大人になってからのことでした。)朝食時だったこともあり、あちこちから火が出て、それから3日間、広島は火の海に包まれたそうです。

 岡田さんは火の手から逃れるため、家を後にしました。今の曙町から若草町や光町の東練兵場を逃げていた時、瓦礫で足を挟まれてしまった女の子に出会います。火の手が女の子に迫ってきているのに足が抜けなくて「おかあちゃーん!」と泣き叫んでいたそうです。当時8歳だった岡田さんはその子を助けることができず、逃げてしまったそうです。「その子は焼け死んでしまったでしょう」と岡田さんは涙を滲ませながら語ってくださいました。

 「拾って食べるものもなかった。」すべて瓦礫となり、市内から瀬戸内海が見えるほどであった広島を、岡田さんはそう表現されました。「希望も何もなかった。」60年は草木も生えないだろうと言われていた広島にぺんぺん草が生えているのを見て希望をもらったそうです。

 岡田さんは、いろいろなところで被爆体験を証言されています。
「孫たちに私のような体験をしてもらいたくない。日本は70年間戦争をしてこなかったけれど、世界は今でも戦争や紛争が絶えない。私が何も行動を起こさなかったら、核戦争が始まるという危機感がある。」未来志向なお話をしてくださりました。

 私たちは、岡田さんの目で見てきた世界で起こっていることに関するお話を聞くことができました。生まれてから世話をされずそのまま大きくなり、飢餓を通り越して目が見えなくなっているチュニジアの子どもたち。軍隊の立派なパレードの背後でゴミをあさるインドの子どもたち。パキスタンのある子の夢は「家族と一緒に食事をすること」。

 「子どもは世界の宝物。命を大事に引き継いでいってほしい。」
世界の現状を見てきた岡田さんのこのメッセージはとても重みがありました。親が死んでいたら、自分はいなかったと考えると、命の大切さを強く認識します。
「アジアの国々が仲良くならないと世界平和は実現しない。」
まずは、日本に近い韓国、北朝鮮、中国と仲良くなるべく努力していきたいです。国家同士は、堅い頭で、一歩も譲らず、いがみ合っていますが、私たち国民の一人一人は、お互いの非を認め合い、受け入れることができるのではないかと考えています。


 平和活動を本気でやってきた方の貴重なお話が聞けてほうとうに良かったです。ありがとうございました。(難波)