2011年5月14日土曜日

★被爆ピアノ打ち合わせ(20110513)

2011年5月14日土曜日 21:37
2011年5月13日(金)

被爆ピアノコンサートの打ち合わせをしました。
HOPEプロジェクトさんhttp://hope-project.web.officelive.com/default.aspx所有の被爆ピアノのコンサートを行い、その様子をヒロシマ・アーカイブに収蔵する計画を発動したのです。

このピアノを所有していた河本明子さんは、広島女学院専門部在学中に、学徒動員先の広島市内中心部で被爆。必死の思いで三滝の家に戻られましたが、翌8月7日に原爆症で亡くなりました。


今回、河本明子さんがもう一度弾きたくても弾けないまま天に召されたピアノを用いて、コンサートを開きたいと思い、計画を進めています。

6月13日(月)13:10~13:30、
■6月14日(火)16:00~17:00
■6月15日(水)12:50~13:10、
■6月17日(金)12:50~13:10、

の日時、広島女学院ゲーンスホールにおいて、コンサートを開催します。広島女学院中高在学生と音楽科の木曽先生、女学院の卒業生と高校音楽部の皆さんに演奏を依頼中です。原爆の惨禍の中からよみがえったピアノの、優しい音色をお楽しみください。

さて、女学院のヒロシマ・アーカイブ取材メンバーは、このコンサートを成功させ、その様子をアーカイブに収蔵すべく、がんばっています。13日放課後、HOPEプロジェクトの二口(須藤)とみゑ先生にお越しいただき、打ち合わせをしました。二口先生は、『平和を祈る人たちへ』にも、この被爆ピアノと河本明子さんについての手記を寄せておられます。

お話する中で知ったのは、二口先生のお父様が、保存が決まった原爆ドーム補強工事の責任者だったという事実です。お父様は今もご健在ということで、そのうちインタビューに伺うことになりました。
お忙しい中駆けつけてくださり、貴重なピアノの貸し出しを了承してくださった二口とみゑ先生に、心より感謝申し上げます。(矢野一郎)

2011年5月12日木曜日

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★「明日の神話」撤去作業(20110512)

2011年5月12日木曜日 12:13
2011年5月12日(木)10:30~

東京・渋谷に展示されている岡本太郎の「明日の神話」ののレプリカが女学院にきて1ヶ月以上経ちましたが、今日でその壁画ともお別れです。
雨の中、撤去作業を行いました。ご厚意でこの壁画を貸してくださったアーティストの石堂めぐむ先生と学生さんたち、そして舞台関係の業者さんたちが来てくださいました。


アイリスセンターから高校校舎へ渡る通路に設置した壁画は、3分の1といえども高さ約2メートル、長さが13メートルもある圧倒的なものです。

ここを通る人たちの目を楽しませ(驚かせ?)たのはもちろん、美術の授業でも活躍しました。

平和を願う「ヒロシマ・アーカイブ」にも、岡本太郎さんの作品を収蔵できないかと、石堂先生が交渉中。

この壁画の展示については、4月23日付毎日新聞でも報道されました。


自然光の中へ出てきた壁画中央部分と記念撮影。
壁画は7枚のパネルに分割されて、運び出されました。雨の中の作業、お疲れ様でした。

1ヶ月間も貴重な作品を貸していただいた石堂先生に、心より感謝申し上げます。女学院生は、この壁画のことを一生忘れないでしょう。(矢野一郎)

2011年5月8日日曜日

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★バプテスト教会『語り継ぐ』証言者撮影(20110508)

2011年5月8日日曜日 16:05
2011年5月8日(日)11:00~14:00

日本バプテスト広島キリスト教会(中区舟入町12-7)が発刊された被爆者証言集『語り継ぐ』で証言をしておられる10名のうち、6名の方がヒロシマ・アーカイブへの転載を許可してくださいました。今日は、その方々の写真を撮影させてもらいました。

礼拝から参加しましたが、ちょうど洗礼式(バプテスマ)の日で、礼拝の中で二人の若い方が、洗礼を受けられました。バプテスト教会独特の浸礼による洗礼式に立ち会う機会を与えられ、感動しました。

撮影は著名な写真家の粟根靖雄先生にお願いしました。女学院の写真部のコーチで、学校のパンフレット撮影もお願いしている先生です。粟根先生の公式サイトは
ブログは
です。
下の写真は教会での日曜礼拝の光景です。


礼拝後、教会の庭の一番奥にしつらえたセットで撮影をはじまます。

最初は、岡村悦弥さん(82)。岡村さんは旧制中学4年生の時、学徒動員先の三菱造船所(爆心地から約3キロ)で被爆されました。

粟根さんは、被爆者の方と語り合いながら撮影をされます。その方の人生・人となりをふまえて写真を撮っていかれるのです。一流の方の仕事ぶりには頭がさがります。とことんていねいな仕事ぶりで、どこにも手抜きや妥協がないのです。



二人目の濱野富美子さん(74才、現在の西区楠町1丁目バス停付近で被爆)に続いて、左の写真は三上君子さん(77)の撮影風景。助手はマネージャーの木本季依さんです。木本さんは、粟根さんのアシストをするだけでなく、一人一人の被爆者の語る言葉を、ノートに記録しておられました。

三上さんは、西区の三篠小学校(爆心地から1.7㎞)のグランドで被爆されています。同じく被爆されたお兄様は88才でご健在とのことですが、三滝橋をわたったところの河川敷で、亡くなったお母様を荼毘に付した時のことは、今も決して語られないそうです。

「死者何万人」という数字の向こうには、決して口にすることのできない、凄まじくそして悲しい出来事が存在しています。
三上さんは、腕や首に残るケロイドの跡を見せてくださいました。その傷跡が恥ずかしくて、戦後は夏でも決して半袖の服を着なかったそうです。

しかし、三上さんは、戦後結婚され、二人の息子さんを無事に育てることができたことを、神様のお守りによるものだと、素直に感謝しておられました。

4人目は、目貫美江さん(84)です。目貫さんは18才の時、西区の三篠神社すぐ北の旧国道沿いの建物の2階で被爆されました。

目貫さんは、「私たちが語っても、今の若い人には決してわからない部分がある」とおっしゃいました。「たとえば、『食べるものがない』ということの実感は、いくら語っても、実際に飢えたことのない人には伝わらないだろう」とおっしゃいました。

本当にそうだと思います。しかし、一見恵まれた私たちの生活も、ひとたび震災に見舞われると、あっという間に食料も水もない生活になってしまう脆弱なものであることを、今回の大震災に教えられました。目貫さんの言われる「今の若者には伝わらない」世界が、私たちとすぐ隣り合わせに存在していることに気づかされ、慄然としました。
写真撮影を終えた後、目貫さんを囲んで、即席の証言を聞く会になりました。粟根さんと木本さん、女学院高校の室田さん・安藤さん・民谷さんが今日の取材に参加しました。

なお、『語り継ぐ』の証言者のうち、安部さんと小出来さんは、体調を崩して撮影できませんでした。ご高齢の被爆者の記録を残すことがまさに急務であること、を思い知らされました。お二人の撮影は、また日を改めて行います。

牧師の播磨先生をはじめ、お世話くださったバプテスト教会の方々に感謝です(矢野一郎)

2011年5月7日土曜日

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★小方澄子さん被爆証言収録(20110507)

2011年5月7日土曜日 15:09
2011年5月7日(土)13:00~14:00

ヒロシマ・アーカイブ広島女学院高校スタッフによる取材の記録をつけていきます。
よろしくお願いします。

さて、このブログ記事の第1弾は、被爆者の小方澄子さん(79)の被爆証言収録の模様の報告です。
インタビュアーは高2の山崎さん、カメラは同じく高2の室田さんと安藤さんです。

小方さんは、広島女学院高等女学校2年生(13才)の時、市内十日市町(爆心地から700メートル)で被爆されました。突然の轟音に気を失い、気がついたら家の下敷きになっていました。頭上で叫ぶ叔母さんの声に返事をすると、瓦を1枚1枚はがして助け出してくれたそうです。

3才と5才の弟さん、そして叔母さんと共に、必死の思いで西へ西へと逃げ延び、川原にたどりつき我に返ります。すると、背中に3才の弟がしがみついていることを知り、嬉しさのあまり弟を抱きしめて涙を流したとのこと。

しかし、その直後から激しい原爆症に襲われ、下痢と嘔吐に悩まされます。さらに追い打ちをかけるように「黒い雨」に見舞われます。

翌日にはお母さんとも再会でき、無事を喜び合ったものの、それから1週間の野宿生活は、周りの遺体からの悪臭、広島市内の炎の光や水を求める重傷者の声も相まって、地獄絵図そのものだったそうです。

その後高田郡郷野町の親戚宅へ身を寄せることとなります。
4人とも外傷は少ないものの、20日くらい経つと、高熱で倒れてしまいます。叔母さんは内臓から出血があったようで、苦しみ抜きながら32才で亡くなり、小方さんはその横で42℃の高熱で意識を失ったままだったそうです。

幸い小方さんは一命を取り留めますが、頭髪が抜け、体のあちこちに斑点ができ、皮膚がふくれあがり、毛穴から膿が流れ出ます。そのまま半年も伏せたままでしたが、少しずつ回復していきました。
しかし、膿が出て治癒した跡は、筋肉の組織が元通りになることなく、体のあちこちにケロイド状のくぼみができたままです。私たちにその傷跡を見せてくださいました。

終戦後10年して結婚し、子どもさんを育て、力強く生きてこられた小方さんですが、57年間は原爆のことを誰にも語ることはなかったそうです。
しかし、語るつらさを乗り越えて、現在では毎年女学院中学1年生の前でご自分の被爆体験を語ってくださっています。また「9条の会廿日市」などで平和活動に取り組んでおられます。
また、ご自分の被爆体験から、上関原発反対の活動にも取り組んでおられ、このたびの震災に伴う福島原発の事故のことを、とても悲しんでおられました。

昨年ガンで弟さんが天国へ旅立たれたばかりという小方さんのお話を通して、放射線による被曝の恐ろしさを学ぶことができました。身を切るような体験を、ヒロシマ・アーカイブのために語ってくださった小方さんに、心より感謝申し上げます。(矢野一郎)