2016年4月8日金曜日

☆20160331 岡田 恵美子さん 証言収録

2016年4月8日金曜日 15:53
 2016331日に岡田恵美子(おかだえみこ)さんの証言収録を行いました。場所は広島女学院高校、インタビュアーは高2の難波華子です。

 岡田さんは、193711日に生まれ、現在79歳です。被爆当時は8歳で国民学校に通っておられました。家族構成は、両親、4歳上の姉、5歳と3歳の弟が2人です。

 物心ついた時から戦争が始まっていたので、岡田さんは軍国教育を受けてこられました。「贅沢は敵」「欲しがりません、勝つまでは」などのスローガンに囲まれて育ってこられた岡田さんは、自分が男だったら軍隊に入りたいと思っておられたそうです。

 85日の夜、空襲警報が激しかったので、6日の朝は寝不足だったそうです。原爆投下時には、現在の東区の自宅でお母様と二人の弟と朝食をとっておられました。突然真っ暗になったので、岡田さんは、自分の家に焼夷弾が落とされたと思ったそうです。しかし、周りの家全部が瓦礫となっていることに気づき、そうではないと分かったそうです。(原爆のことについて知ったのは、岡田さんが大人になってからのことでした。)朝食時だったこともあり、あちこちから火が出て、それから3日間、広島は火の海に包まれたそうです。

 岡田さんは火の手から逃れるため、家を後にしました。今の曙町から若草町や光町の東練兵場を逃げていた時、瓦礫で足を挟まれてしまった女の子に出会います。火の手が女の子に迫ってきているのに足が抜けなくて「おかあちゃーん!」と泣き叫んでいたそうです。当時8歳だった岡田さんはその子を助けることができず、逃げてしまったそうです。「その子は焼け死んでしまったでしょう」と岡田さんは涙を滲ませながら語ってくださいました。

 「拾って食べるものもなかった。」すべて瓦礫となり、市内から瀬戸内海が見えるほどであった広島を、岡田さんはそう表現されました。「希望も何もなかった。」60年は草木も生えないだろうと言われていた広島にぺんぺん草が生えているのを見て希望をもらったそうです。

 岡田さんは、いろいろなところで被爆体験を証言されています。
「孫たちに私のような体験をしてもらいたくない。日本は70年間戦争をしてこなかったけれど、世界は今でも戦争や紛争が絶えない。私が何も行動を起こさなかったら、核戦争が始まるという危機感がある。」未来志向なお話をしてくださりました。

 私たちは、岡田さんの目で見てきた世界で起こっていることに関するお話を聞くことができました。生まれてから世話をされずそのまま大きくなり、飢餓を通り越して目が見えなくなっているチュニジアの子どもたち。軍隊の立派なパレードの背後でゴミをあさるインドの子どもたち。パキスタンのある子の夢は「家族と一緒に食事をすること」。

 「子どもは世界の宝物。命を大事に引き継いでいってほしい。」
世界の現状を見てきた岡田さんのこのメッセージはとても重みがありました。親が死んでいたら、自分はいなかったと考えると、命の大切さを強く認識します。
「アジアの国々が仲良くならないと世界平和は実現しない。」
まずは、日本に近い韓国、北朝鮮、中国と仲良くなるべく努力していきたいです。国家同士は、堅い頭で、一歩も譲らず、いがみ合っていますが、私たち国民の一人一人は、お互いの非を認め合い、受け入れることができるのではないかと考えています。


 平和活動を本気でやってきた方の貴重なお話が聞けてほうとうに良かったです。ありがとうございました。(難波)