2015年3月30日月曜日

☆20141123 川本博子さん 証言収録

2015年3月30日月曜日 9:48
 西条にある中央生涯学習センターで川本博子さんの証言収録を行いました。
インタビュアーは高1の並川です。

 川本さんは1929日生まれの85歳で、被爆当時は16歳でした。1945年8月6日、広島女学院の専門学校1年生だった川本さんは寄宿舎で家に帰る準備をしている時に被爆されました。建物の下敷きになり傷だらけの状態で寄宿舎の先生と川の方へと逃げて行きました。そこで、今でも忘れることのできない体験をされました。川本さんに水を飲ませてもらった一人の少年が、「水、おいしかったよ。日本勝つね。」と言ったそうです。川本さんはその時はもう日本が勝つとは思っていませんでした。しかし、亡くなる寸前の少年を前にして、川本さんは「勝つよ」としか言うことができませんでした。このことを思い出すと今でも涙がこぼれるそうです。とてもよく笑う明るい方でしたが、この時だけは泣きながら話されていました。


 戦後、差別などもなく2人のお子さんにも恵まれた川本さんでしたが、医者と縁が切れないほど身体は弱まり、大変な思いも多く味わってこられました。内臓や血液に異常がでるなど、多くの被爆者の方と同じように被爆後何年も経ってからも、その脅威に脅かされているそうです。




被爆体験を家族以外に話すのは今回が初めてということでした。戦後、何十年も経ってから、ぽつりぽつりと家族に被爆証言をするようになりました。被爆体験はとても恐ろしく、誰かに話せるようなものではなかったそうです。被爆という恐ろしい体験を笑って話せるようになるまで一体どれほどの時がかかったのでしょうか。


「誰かが戦争をすると言ったら文句を言いに行く。」と川本さんはおっしゃいました。「戦争は絶対にやってはいけない」という事は、ほとんどの戦争体験者の方々はおっしゃいます。しかし、川本さんのように行動を起こしたいという方は滅多にいらっしゃいません。とても印象深く、そして、とても心に響く言葉でした。川本さんが声を大にしてまで伝えたかったこの言葉。後世にまで残していくべきなのではないでしょうか。


今日は貴重なお話ありがとうございました。(大坪)




2015年3月10日火曜日

☆20150222 羽山末子さん 証言収録

2015年3月10日火曜日 21:27
2015222日に羽山末子さんには羽山さんのお宅でインタビューをしました。インタビュアーは高1の中島です。

 羽山さんは昭和229日生まれの89歳です。被爆当時は18歳でした。当時は現在の向洋に住んでおり、家族構成は、両親と祖父母、兄が2人、姉が2人の五人兄弟の9人でした。
兄は兵隊でした。羽山さんは当時、向洋にあるマツダで事務職をされてました。

 羽山さんは朝いつも会社で掃除をすることが日課になっており、86日の朝も掃除をされていました。原爆投下直後、外に出てみると大きな建物は3つほどで、あとはすべて焼野原でした。その後自宅に戻り入市被爆されました。自宅に戻る途中、けが人や死体が路上に放置されていました。その人たちの服はボロボロで、皮膚はただれていました。その後当分の間は、その光景が夢に出てきていたそうです。自宅に戻って、天井を見上げると天井板が落下していました。祖母がその屋根の下敷きになり瓦が体に刺さっていましたが、火傷をしていた祖父が助け出しました。

 羽山さんは原爆によって顔に擦り傷と目の上を切りました。命に関わるほどのけがではありませんでしたが、目の腫れがひどく治療をする必要がありました。向洋には病院がなかったため、西条の病院まで足を運ぶことになりました。母の実家である西条でその後1か月間過ごしました。
 羽山さんは「戦争ほど恐ろしいものはない。戦争をすることは人間がする愚かな行為だ。原爆が投下されたとき、草木も生えないと言われていましたが広島は人々の努力によって復興を遂げました。」とおっしゃいました。



 私は羽山さんのお話を聞いて改めて戦争は非人道的な行為であり、罪のない人や大切な人の命までも奪う残虐な行為だと痛感しました。また私たちの知らない被爆者の思いを聞き、残していく必要があると再認識しました。今回は貴重な体験をお話してくださり、ありがとうございました。
                                                  (荒井・中島・山口)