2017年10月10日火曜日

☆20161214 志満正巳さん 証言収録

2017年10月10日火曜日 13:38
2016年12月14日に志満正巳さんの証言収録を行いました。場所は広島女学院中学・高校の放送室です。インタビュアーは高1の奥津です。
志満さんは1932年(昭和7年)2月3日 国泰寺で生まれ、5人兄弟の末っ子だそうです。被爆当時は広島市立中学の2年生でした。いつもは小網町で建物疎開に動員されていたのですが、8月6日は、自分のクラスと下級の一クラスが授業を受ける日でした。この日、平和公園に建物疎開に行った他クラスの生徒たちは誰一人として戻ってきませんでした。350人いた一年生は全滅で、6割が即死だったと後から聞いたそうです。
8月6日の朝、志満さんが大手町7丁目にある自宅を出ようとすると、空襲警報が鳴ったので、自宅で待機しました。10分後、警報が解除されたので登校しました。朝礼後、教室で弁当と教科書を机の中にしまった瞬間、ぴかっと光ったので机に伏せました。8時15分でした。顔をあげるとあたりは爆風で巻き上がったホコリのせいで薄暗かったそうです。食糧難だったので机にしまったばかりの弁当を探しましたが、教科書とともになくなっていました。爆風でとばされたのです。周りを見ると志満さんのいた一階の教室は無事でしたが、二階の教室はすべて倒壊していました。「教室から出てみた光景は地獄そのものだった。地獄でもあんなにひどくはないかもしれない。」と志満さんは語りました。やけどで熱い熱いと転げまわる生徒たちに動ける生徒がポンプで水をかけてやっていました。飛んできた屋根の下敷きになって身動きがとれない生徒を、志満さんは引っ張り出してあげました。校庭に留めてあった陸軍のトラックから煙が出ていたので爆発するかもしれないと思い、近くの中広中学校に行き、その側にある畑に20人ぐらいと避難しました。ガラスだらけの校庭を裸足で逃げましたが、ガラスが熱でとけていたためか、足にけがはしませんでした。
畑の中で「自分の地域にだけ爆弾が投下されたのだろう。じきにほかの地域の人が助けに来てくれるはずだ。でもなぜこんなにたっても誰も助けに来ないのだろう。」と不思議に思っていました。すると三菱に動員に行っていて市内方面から逃げてきた上級生が、市内中が地獄であると教えてくれました。生徒たちは泣き出しました。周りの人たちが畑のかぼちゃを焼いてくれましたが、志満さんは歯が浮いていたため食べることができませんでした。骨がみえるほどの大けがをし、顔から出血していたので、三角巾で頬かむりをして助けを待ち続けました。しばらくすると、黒い雨が降ってきたので一緒に避難していた先輩と転がっていた板を傘のようにして雨を防ぎました。濡れなかったおかげか、その後、原爆症によくある癌にならなかったそうです。
雨が止むと、先輩に「一緒に家に帰らないか?」と誘われたので、もう助けは来ないと思い、一緒に自宅のある紙屋町のほうに歩いていきました。途中橋がなくなっていたので福島川を通りました。たくさんの死体が流れていて自分の体にぶつかるという異常な状態でしたが、感覚がマヒしていたのか、それをよけながら進み、横川橋に行きました。人道用の橋は使えなかったので車用の橋を渡りました。その途中、当時としては珍しかった鉄筋の相生橋が真っ二つになっていたことに驚きました。その後、先輩とわかれ、一人で紙屋町に向かいましたが、爆心地近くの自宅周辺は、熱すぎて近づけませんでした。変わり果てた町をみて涙しました。通りかかる大人たちに、「坊主!男ならしっかりしろ!」と言われました。家に近づけないので、仕方なく鶴見橋に行きました。川をのぞくとたくさん死体が流れていました。小学生の男の子が見えたけれど、「そこは危ないからこっちにおいで」と声をかけられなかったことが今も悔やまれるそうです。鶴見橋の土台の下で、一夜を明かそうとしたとき、キヨシさんという男性が「こっちにこい。一緒に夜をこそう」と呼び寄せてくれました。そして兵隊から乾パンをもらいました。
翌日自宅に向かいましたがやはり地面が熱くて、入れなかったので鶴見橋に戻りました。キヨシさんに「自分は呉に避難するが、どうする」と聞かれたので、呉の近くの吉浦に親戚のところに連れて行ってもらうことにしました。キヨシさんが広島を出るときに必要な罹災証明書や移動のトラックの手配、途中で休むお宅への交渉、矢野からの列車の手配などすべて、やってくださいました。
近所まできたのでキヨシさんと別れ、志満さんは記憶をたよりに叔父の家まで向かいました。血と泥にまみれて頬かむりというひどい姿をしていた志満さんは、子供たちに石を投げられたそうです。何とか叔父さんの家につき、お兄さんと再会し、病院でケガを手当てしてもらいました。十一針も縫いましたが、周りの人と比べれば軽傷だったそうです。志満さんは広島市内を出てから初めての睡眠につきました。治療を受けず眠ることで死んでしまってはいけないと、キヨシさんが道中ずっと起こし続けてくれたからでした。
13日の夜、父親が廿日市の鉄道病院に入院していると連絡がありました。お兄さんと一緒に会いに行くとお父さんは原爆症の末期でしたが、再会をとても喜んでくれました。15日に日本の終戦を告げる玉音放送を聞いたので、お父さんに伝えると、信じず、激怒したそうです。お父さんは無数の口内炎の痛みや嘔吐に苦しみながら、翌日お亡くなりになりました。お兄さんと二人で近くの田んぼに荼毘にふしました。
大手町の自宅にいたお母さんと一つ上のお姉さんは8月6日に被爆し、行方不明のままです。志満さんは突然両親を失いました。鉄道病院に勤めていたもう一人のお姉さんがしばらく学校に通わせてくれましたが、結婚したため、その後はまだ復員していないお兄さんの奥様の家でお世話になりました。とてもよくしてもらったと当時の思い出話をしてくださいました。
被爆後1~2年ほど40度の高熱に悩まされましたがやがておさまりました。今も、額や首、顔に無数のガラスが刺さったままなので、たまにそのガラスのせいで出血しましたが、それ以外の後遺症はなかったそうです。体内から摘出したガラスを私たちにみせてくれました。また、周りがみんな被爆者だから特に差別を受けたと感じたことはなかったそうです。奥様も被爆者だそうです。


戦争とはなにかと聞くと、志満さんは絶対やってはいけないものと簡潔におこたえになりました。続けて、「平和公園に行くならぜひ、供養塔にいってほしい。私は平和公園で花見だといって飲み食いしているやつらが許せんのですよ。あの下には無数の被爆者の骨があるまま盛土している。あれは平和公園ではなく平和霊園なのだと知ってほしい。」とおっしゃいました。そして志満さんははっきりと、「あんなことをしたアメリカが憎いです。原爆の威力を知るために広島の人たちをモルモットのように扱ったのです。原爆で子供を残してなくなった私の両親はどれだけ無念だろうかと思います。赤ちゃんを抱いたまま死んだ人もいました。戦後たくさんの孤児が闇市で働いていたし、同級生が浮浪者と一緒にいるのも見ました。哀れでした。」とおっしゃいました。


最後に、若者へのメッセージとして志満さんは「親孝行しなさい。しようと思ったときにはいないんだから。そして勉強をしてほしい。」という言葉をくださいました。志満さんの言葉一つ一つが胸に突き刺さりました。