2015年10月23日金曜日

☆20150718 田中稔子さん 証言収録

2015年10月23日金曜日 16:13
20150718 田中稔子さん 証言収録 
 2015718日、田中稔子さんの英語と日本語の証言収録を行いました。場所は広島女学院高校校舎の放送室です。インタビュアーは高1の和田です。

 田中さんは1939年生まれの76歳です。被爆当時は6歳と10ヵ月でした。当時の家族構成はご両親、祖母、妹で、爆心地から2.3キロ離れた牛田町で暮らしていました。お父様は出兵中でした。

86日の朝、815分、小学校に行く途中に原子爆弾が投下され、頭と右腕、左後ろ首に火傷を負ったそうです。口の中に砂埃がいっぱい入りました。じゃりじゃりとした不気味な感覚を今も覚えているそうです。なんとか家に帰ると家は滅茶苦茶でした。その後母と妹と再会することができましたが未だに祖母は行方不明の

まま、遺体すら帰ってきていません。壊れた家の前を幽霊の行列のように大勢の瀕死の人達が両手尾前に伸ばして、肩から剥げ落ちた自身の腕の皮を、爪先にぶら下げていたそうです。田中さんは今でもバーベキュウのトマトをみると一瞬フラシュバックしてゾッとするそうです。田中さんは、火傷が痛く泣いているときに見た青空の美しさに元気づけられたそうです。どんな困難な時にも、前向きに生きて来られたのは、そのおかげだとおっしゃいました。

戦後まもなくは被爆証言はせず、七宝焼きの作家として活動をしてきましたが、ベトナム戦争や他国の紛争のことを知り、色々な場所に行く中で、海外の人たちから戦争を終結させ核兵器を廃絶するには、あなたが体験を話すべきと勧められ、証言活動を始めました。原爆で亡くなった自分の小学校の同級生たちが、一家が全滅したことで、生まれてきた記録も亡くなった記録も何も残っていないことにあるとき、気が付き、その子たちが生きていたことを、証言を通じて伝えようとも思ったそうです。2007年から2015年にかけて3回、NGOのピースボードに乗り、延べ9ヵ月以上世界で、被爆証言をし、平和交流しました。この6年間で計10回、米国内の高校や大学を回り、「核のない世界」を訴えています。あわせて80か国で証言活動を行ったそうです。また、田中さんは壁面七宝の作品でメッセージを伝えることもあります。被爆から50年以上、作品で正面から原爆と向き合うことができず、でも原爆に関することを加えないと作品が完成しないという葛藤から、曖昧に作品の中に表現をしてきました。でも今は、戦争や核兵器を次世代に体験させないためには、言葉でも、作品でも、はっきりと世界にメッセージを伝えることが責務だと思っているそうです。原爆を落とした相手を恨むのはなく、誰かを勝手に批判したり非難したりするのでなく、柔軟に心を開いて、わかりあうことが大事だと、トルーマン大統領のお孫さんやエノラゲイのパイロットのお孫さんとも、友人になり、ともに平和を構築していらっしゃる田中さんは、「民族や国籍を超えて、世界中に親しい友人を作ってください。お互いの価値観や正義がぶつかり、傷つくこともあるけれど、それを乗り越えていき、それぞれが柔軟になり、人間力があがれば、それが世界平和につながるから」とおっしゃいました。また、8月6日に本校で被爆し、亡くなられた英語教諭、田中彦七先生の名前を継いだ甥とご結婚されたことから、「今日の証言が供養になると嬉しいです。」とおっしゃいました。私達みんなで慰霊碑に黙祷し、平和構築を誓いました。
 

田中さんの話を聞いて、日々の中で相手を尊重しながら、色々な人と良い関係を構築し、必ず核兵器禁止条約を締結させようと思いました。(山口)

2015年5月2日土曜日

☆20150428 塩冶節子さん 証言収録

2015年5月2日土曜日 17:11
 2015428日に塩冶節子さんの証言収録を行いました。場所は広島女学院高校校舎の放送室です。インタビュアーは高2の伊藤です

 塩冶さんは1940328日生まれの75歳で広島女学院中学校の卒業生です。被爆当時は5歳でした。当時の家族構成はご両親、祖母、妹の5人家族で、爆心地から1.7キロ離れた段原町(現在の南区段原町)で暮らしていました。お父様は安芸郡坂町の発電所で働いていました。


86日の朝は、732分に空襲警報が解除されたので、ほっとした気持ちで祖母と自宅で遊んでいました。しかし、815分に原子爆弾が投下され、彼女はがれきの下敷きになりました。母に助けてもらったおかげで、家にいた4人は皆助かりました。比治山に避難する際、近所の方が「うちの子が助けられない。」と泣いていた光景が忘れられないそうです。6日の夕方、お父様と、はぐれていた祖母に再会し、その夜は比治山の登山口で一夜を過ごしました。その後2日間は爆心地から2キロの多門院()で過ごし、その後坂町のお父様の社宅で、戦後に生まれた弟2人といとこが加わり、総勢8人で幸せに暮らしていました。しかし、塩冶さんが中学1年生になった年の925日、全く外傷がなく活発で足が速かった妹さんが、当然体調を崩し、亡くなりました。たったの9歳でした。元気だった妹さんの突然の死に家族一同悲しみに暮れました。当初は原因が不明のまま、突然亡くなる子どもが多くいました。後から、原爆の放射能の後遺症ではないかと聞きました。今は明るく、快活な塩冶さんですが、思春期の頃は、妹や友人の死の影響を受け、今よりもずっと内向的だったそうです。

 その後、塩冶さんは、30歳〜59歳まで幼稚園の先生や障害者の子供たちの教師をしていました。被爆証言をするようになったのは10年前のことです。以前は、5歳の自分が話せることはないと思っていましたが、周囲からの後押しもあり、現在は被爆者教職員の会に所属しています。彼女にとって証言活動は神様からの使命であり、もう語れない亡くなったご家族や子どもたちの分まで、自分が証言をし、二度と罪のない子どもたちが突然、家族や友人を失うことがないように、という気持ちで行っているそうです。

 「これからも夢と希望を持って生きていきたい。広島の地に生きるあなたたちに平和を伝えていってほしい。」
とおっしゃいました。


 塩冶さんのお話を聞いて、私たちには平和活動を続ける使命あることが改めて分かりました。                                                                (山口)

2015年4月18日土曜日

☆20150326 豊永恵三郎さん 証言収録

2015年4月18日土曜日 8:10

 2015年3月26日(木)に豊永恵三郎さんの証言収録を行いました。場所は広島女学院中学校舎の図書室です。インタビュアーは一宮です。

 豊永恵三郎さんは1936年3月29日生まれで、被爆当時は9歳でいらっしゃいました。当時は尾長町(現在の山根町)にお母様と6つ歳の離れた弟さんの3人で暮らしておられました。



 1945年8月6日、8時15分。坂町を歩いていた豊永少年は、広島市中心部の方から昇っていくきのこ雲を見ました。しかし、彼に見えたのはそれだけではありませんでした。きのこ雲に浮かび上がった2人の外国人の顔。ルーズベルトとチャーチルの顔。それは戦時中の教育のため敵国に強い怒りを抱いた彼の心、そのものでした。その後、行方が分からなくなってしまったお母様と弟さんを祖父母の方の家でお世話になりながら探し続けました。ようやく2人と再会できたのは8日のこと。弟さんはお母様に守られ無傷だったそうですが、お母様は誰か分からない程の火傷を顔に負われていたそうです。また、2人が見つかった二葉山に多くの遺体が放置されていたとのことです。
戦後、2度もガンが見つかり、治療をされた豊永さん。今は証言をすることが出来るけれど、食欲はなく新しいガンが見つからないかという不安に日々襲われています。

 豊永さんが証言収録をするようになったのは30年ほど前のことです。当時、教師をしていた豊永さんに大阪の学校で働いていた知り合いの方に依頼されたことがきっかけでした。それを皮切りに多くの学校の生徒や先生たちに証言をしていきました。その活動を行いつつ在外被爆者の方々の支援活動もなさっています。在外被爆者のことは何も知らなかったので勉強不足を痛感しました。

 豊永さんが今の、そしてこれからの若者に伝えたいことは3つ。1つめはアメリカがなぜ原爆をおとしたかを勉強し、しっかりと自分たちなりに考えてほしいということ。2つめは日本の加害責任を意欲的に学習してほしいということ。そして3つめは被爆の実態を知り、核兵器をなくす活動をしてほしい、とのことでした。私は3つめを聞いたとき、ある本で出会った言葉を無意識的に思い出しました。それは「核兵器の使用とものは決して許されない犯罪行為であり、そのような兵器は国際的に違法であるというような法制度を作ることこそ、私たちにできる本当の「継承」ではないだろうか。」というものです。確かに今回のような被爆者の方の話を聞き、後世に残す活動も「継承」ではあります。しかし、さらに被爆者の方の想いを受け継ぎ、それを実践し、成し遂げることまでを含めた意味の「継承」が何よりも大切なのではないでしょうか。

 
今回の豊永さんの想いを今後の様々な継承活動に活かしてゆきたいです。
本当に貴重なお話をありがとうございました。(伊藤)













2015年4月1日水曜日

☆20150326 石井みつこさん 証言収録

2015年4月1日水曜日 16:04
 2015年3月26日(木)に石井みつこさんの証言収録を行いました。場所は広島女学院高等学校の放送室、インタビュアーは高校2年の徳山です。

 
 石井みつこさんは、1938年1月12日生れの77歳です。被爆当時は7歳でした。当時の家族構成は、両親と一人の兄、3人の姉と一人の妹とみつこさんでした。

  

 原爆が投下された時、石井さんは、幟町の自宅の2階でお姉さんと勉強されていました。爆風で家がつぶれ、みつこさんは家の大黒柱に手首を挟まれ、宙ぶらりんになってしまいました。遠方の福屋や中国新聞社が、他の建物がなくなったため、石井さん宅からも見えたそうです。お姉さんが呼んだ近所の方が、助けてくれ、抱いたまま広島駅裏の避難所まで運んでくださいました。息子と遭遇したその方が、子ども二人運ぶ乳母車を探しにいったまま、戻ってこなかったので、みつこさんは線路に沿って歩きました。すると、何もないのに線路の枕木に火がつくので7歳だったみつこさんはとても驚きました。のちに、地上に降りた空気が3000℃という高温だったので、枕木が発火したとわかりました。自分の皮膚も全身焼けてしまいました。

 しばらくすると急に大雨が降り始めました。
8月6日の朝は晴天だったので、みつこさんは大変驚かれました。この大雨は「黒い雨」と呼ばれています。すると今度は、赤・黒・青・黄の炎を発しながら、壁のようなものがむくむくと大きくなり、広島の街の上空に回りながらあがっていきました。7さいのみつこさんはこの色とりどりの壁のようなものに「きれいだな」という感想を抱かれました。この壁はのちに「キノコ雲」と呼ばれています。その後、どしゃぶりになったのです。





 学徒動員の若者たちや、町の人たちが東の方へ逃げていくのでついていきました。その先にテントがあり、お医者さんがいらっしゃり、水をのむ桶がありました。みつこさんは全身に火傷の治療を受け、水を飲ませてもらいました。その後看護師さんが、避難者のたくさんいる東照宮の回廊まで連れて行き、家族を待つよう言われました。神主の奥さんがおにぎりを振舞ってくれましたが、死体だと思っていた衣服も皮膚も焼け爛れ、泥だらけの大人たちがおにぎりを求めていく姿に圧倒され、自分が食べたかどうかは記憶にありません。10日後、家族が迎えに来てくれたときは、栄養失調だったそうです。光町から歩いて、同じ町内の人たちが避難している中山に行きました。そこでも食事は十分に食べることが出来ませんでした。お茶碗のなかに10粒ほどのお米しかないようなおかゆを食べていたそうです。家族全員が生きていくのは厳しかったので、みつこさんは山口の親戚の場所に行きましたが、そこでも食べるものがなく、台風の被害にもあったので、すぐに広島に帰省しました。



 戦後、石井みつこさんは、被爆者であるため、就職ができませんでした。結婚しましたが、夫も、放射能のある中で育ったためか、全身の倦怠感に悩まされ、働くことができなかったので、光子さん自身が速記を習い、32歳でタイプライターを習い、印刷所を開業され、40年間続けられました。また、タイプライターの教室も開かれました。 石井さんは、20年位前まで被爆証言をされてきませんでした。当時7歳だった石井さんは当時大人だった人のように話すことができないと思ったからです。しかし、被爆証言をする方々が高齢になり、亡くなり、体内被爆や被爆二世の方々も証言をされている姿を見る中で、自分も話さなければと思い、現在は、修学旅行生をはじめ、様々な方を対象に証言をされています。



「人はみんな死ぬ。だけど、みんな、誰かに殺されるのではなく、天寿をまっとうしたいでしょう。」みつこさんは言います。「日本には生活に困っている人がたくさんいるのに、なんで軍事のためにお金を使うん? 戦地に人を送ると、生活に必要なものや食べ物を人がいなくなり、みんな貧しく、苦しくなるってことがどうしてわからんのん?」



「上に立つ人は世の中が暗くなる発言しちゃいけんよね。(いけないよね。)
 暗い発言が日本をゆがめていくからね。明るい中で生きていけるようにしなければね。私も頑張ります。」


私は、今日石井みつこさんのお話をきいて、核兵器は絶対反対という気持ちがさらに強くなりました。今日は貴重なお話をありがとうございました。(難波)

2015年3月30日月曜日

☆20141123 川本博子さん 証言収録

2015年3月30日月曜日 9:48
 西条にある中央生涯学習センターで川本博子さんの証言収録を行いました。
インタビュアーは高1の並川です。

 川本さんは1929日生まれの85歳で、被爆当時は16歳でした。1945年8月6日、広島女学院の専門学校1年生だった川本さんは寄宿舎で家に帰る準備をしている時に被爆されました。建物の下敷きになり傷だらけの状態で寄宿舎の先生と川の方へと逃げて行きました。そこで、今でも忘れることのできない体験をされました。川本さんに水を飲ませてもらった一人の少年が、「水、おいしかったよ。日本勝つね。」と言ったそうです。川本さんはその時はもう日本が勝つとは思っていませんでした。しかし、亡くなる寸前の少年を前にして、川本さんは「勝つよ」としか言うことができませんでした。このことを思い出すと今でも涙がこぼれるそうです。とてもよく笑う明るい方でしたが、この時だけは泣きながら話されていました。


 戦後、差別などもなく2人のお子さんにも恵まれた川本さんでしたが、医者と縁が切れないほど身体は弱まり、大変な思いも多く味わってこられました。内臓や血液に異常がでるなど、多くの被爆者の方と同じように被爆後何年も経ってからも、その脅威に脅かされているそうです。




被爆体験を家族以外に話すのは今回が初めてということでした。戦後、何十年も経ってから、ぽつりぽつりと家族に被爆証言をするようになりました。被爆体験はとても恐ろしく、誰かに話せるようなものではなかったそうです。被爆という恐ろしい体験を笑って話せるようになるまで一体どれほどの時がかかったのでしょうか。


「誰かが戦争をすると言ったら文句を言いに行く。」と川本さんはおっしゃいました。「戦争は絶対にやってはいけない」という事は、ほとんどの戦争体験者の方々はおっしゃいます。しかし、川本さんのように行動を起こしたいという方は滅多にいらっしゃいません。とても印象深く、そして、とても心に響く言葉でした。川本さんが声を大にしてまで伝えたかったこの言葉。後世にまで残していくべきなのではないでしょうか。


今日は貴重なお話ありがとうございました。(大坪)




2015年3月10日火曜日

☆20150222 羽山末子さん 証言収録

2015年3月10日火曜日 21:27
2015222日に羽山末子さんには羽山さんのお宅でインタビューをしました。インタビュアーは高1の中島です。

 羽山さんは昭和229日生まれの89歳です。被爆当時は18歳でした。当時は現在の向洋に住んでおり、家族構成は、両親と祖父母、兄が2人、姉が2人の五人兄弟の9人でした。
兄は兵隊でした。羽山さんは当時、向洋にあるマツダで事務職をされてました。

 羽山さんは朝いつも会社で掃除をすることが日課になっており、86日の朝も掃除をされていました。原爆投下直後、外に出てみると大きな建物は3つほどで、あとはすべて焼野原でした。その後自宅に戻り入市被爆されました。自宅に戻る途中、けが人や死体が路上に放置されていました。その人たちの服はボロボロで、皮膚はただれていました。その後当分の間は、その光景が夢に出てきていたそうです。自宅に戻って、天井を見上げると天井板が落下していました。祖母がその屋根の下敷きになり瓦が体に刺さっていましたが、火傷をしていた祖父が助け出しました。

 羽山さんは原爆によって顔に擦り傷と目の上を切りました。命に関わるほどのけがではありませんでしたが、目の腫れがひどく治療をする必要がありました。向洋には病院がなかったため、西条の病院まで足を運ぶことになりました。母の実家である西条でその後1か月間過ごしました。
 羽山さんは「戦争ほど恐ろしいものはない。戦争をすることは人間がする愚かな行為だ。原爆が投下されたとき、草木も生えないと言われていましたが広島は人々の努力によって復興を遂げました。」とおっしゃいました。



 私は羽山さんのお話を聞いて改めて戦争は非人道的な行為であり、罪のない人や大切な人の命までも奪う残虐な行為だと痛感しました。また私たちの知らない被爆者の思いを聞き、残していく必要があると再認識しました。今回は貴重な体験をお話してくださり、ありがとうございました。
                                                  (荒井・中島・山口)


2015年2月23日月曜日

☆20150222 羽山恒義さん 証言収録

2015年2月23日月曜日 18:08
 2015年2月22日(日)羽山恒義さんにインタビューしました。場所は羽山さん宅、インタビュアーは高1の山口です。


 羽山さんは、大正13年8月14日生まれの90歳です。被爆当時は20歳で、広島市昭和町に住んでおられました。家族構成は、羽山さん自身と両親と祖母の4人でした。羽山さんは当時、軍人で、数字で書かれた暗号を解く仕事をしておられました。

 8時15分、羽山さんが被爆されたのは、軍の施設の2階です。仕事にかかろうと準備をしていた時に建物の中で被爆したので、火傷はなかったけれど、ガラス傷を負いました。
  何度も気絶しながら、なんとか這い出し、潰れた屋根から地上に降りて、二葉山のそばにある被災者の収容所で意識を回復しました。その時は重症で、もう助かる見込みがない、燃やされる順番を待つ列に寝かされていました。そのままだと、生きながらにして、死体と判断され、燃やされた側になっていたはずです。が、ぎりぎりのところで、助かる見込みのある人たちの列に移され、命拾いをしました。だから、焼かれた死体のお腹が破裂する「ポーン」という音を聞いたことが今も胸を痛めているそうです。
羽山さんは自宅に歩いて帰る途中、亡くなっている人やひっくりかえっている馬などの光景を見たそうです数日たって、双葉山の収容所から己斐まで、焼け野原だったのを羽山さんは見て、涙が出たとおっしゃいました。

 羽山さんは今回私達に被爆体験を話してくださったのですが、一回目に証言収録をお願いしたときは、「つらい記憶を思い出したくない」と取材を拒否されました。羽山さんは、当時の出来事を思い出したくなかったのです。亡くなった知人や、爆風による障害物で逃げられず生きながら焼け死んでいった人とのことを思い、、建物疎開中に被爆し、そういう町内の人たちを救けながら、自身の火傷で救いきれなかったことを思って泣く父親のことを思って、涙されました。
また、羽山さんは、お国を守るために軍人として働き、自分は正義を行っていると思ってきましたが、原爆投下の悲惨な広島を見て、自分の行動は正義ではなかったと気づき、ショックを受けたそうです。

羽山さんは言います。
「戦争というほど悲惨なものはない
だから、戦争は絶対すべきでないのだ」と。


 私達戦争未経験者が戦争体験を聞いても、戦争体験者の目に映ったものと同じものが見えるようになるというわけではありません。しかし、今回私は、羽山さんの体験に寄り添うことが出来ました。

「おかげで焼き場にもっていかずに済んだ。
皆さんに同じ悲惨な経験をさせないために,
このヒロシマアーカイブを見たり、原爆についての写真を見たりして、今後生かしてほしい」


「人のために動きなさい。
 当たり前の生活に喜び、感謝の気持ちを持ちなさい。
 今生きている喜びがどれだけ大きいか!」

今回羽山さんのお話を聞いて、自分のためではなく、まわりの人のために行動して、その喜びを味わおうと思いました。今回は、貴重なお話を、ありがとうございました。 
(難波)

今回の羽山さんのように、今まで被爆体験をしてこなかったけれど、二度と戦争が起こらないように被爆体験を話そうと思った方は、広島女学院高等学校の「核兵器廃絶 署名実行委員会」へ、電話、メール、手紙などでお知らせください。日時を決め、証言収録をさせていただきます。

広島女学院高等学校 核兵器廃絶 署名実行委員会
〒730-0014 広島県広島市中区上幟町11−32
082-228-4131