2016年3月18日金曜日

☆20150718 川本 知さん 証言収録

2016年3月18日金曜日 12:42

 

 

2015718日に川本知さんの証言収録を行いました。場所は川本さんの自宅です。

インタビュアーは高2の大坪です。

 

川本さんは現在82歳です。被爆当時は12歳でした。当時の家族構成は母と叔母と三人の妹と一人の弟でした。爆心地から約2km離れた楠町に暮らしていました。お父様は戦争にとられボルネオ島の戦場へ出ていました。

 

8月6日、川本さんは爆心地から2km離れた学徒動員先の三篠の広島日産自動車工場で被爆しました。8時15分、警戒警報は30分前に解除されたので、みんな緊張から解放されていましたがB29の 爆音が聞こえました。「あ!B-29の爆音」と川本さんが言うと先生は

「今、警戒警報が解除されたばかりじゃ。敵戦機が斗飛んでいるはずがない。友戦機だ。」その会話何の前触れもなく、数千度の放射線が貫きました。オレンジ色と黄色と紫色が混ざった!B-29の爆音」 「今、警戒警報が解除されたばかりじゃ。敵戦飛んでいるはずがない。友戦機だ。」その会話中何の前触れもなく、数千度の放射線が貫きました。オレンジ色と黄色と紫色が混ざった閃光と「ターン!」と耳元に雷が落ちたような衝撃音。その瞬間にきのこ雲、その真下の暗黒と衝撃波。川本さんは5m吹き飛ばされトラックの下敷きになり、トラックの上には木造の二階建てが倒れのっていたそうです。

 

川本さんはかすり傷で済んだそうですが、先ほどまで話していた先生はたこのように真っ赤に焼けていたそうです。川本さんは北へ逃げようと太田川の斜面の草の上を這ったそうです。そこで母、妹、弟と再会しまし、新庄町の竹やぶに避難しました。。4歳の次男と5歳の三女はやけどを負っており水をほしがっていました。二人は「ミズーおかあちゃんミズー、ミズ頂戴―」と母に水を求めながら次第にうわごとも喋らなくなり、亡くなりました。

 

海軍でボルネオ島に出征していた父も昭和20年の4月に亡くなっていたことが2年後の公報で伝えられました。

 

 

川本さんは日本が無防備で戦争のできない国になってほしくないと言います。しかしまた、旧軍部のようなやり方ではなく、外交で問題を解決するべきだとおっしゃっていました。私たちはこれからも戦争の恐ろしさを伝え続け戦争が二度と起こらないように平和を訴えていきたいと思います。