☆20151109 笹口 里子さん 証言収録
2015年11月9日、笹口さんのご自宅で証言収録を行いました。
インタビュアーは高1の中村です。
笹口さんは昭和6年生まれの84歳です。原爆当時は14歳でした。当時の家族構成はご両親、お姉さん、弟でお母さんと弟は島根県、お姉さんと笹口さんは広島電鉄の学校の寮で暮らしていました。
8月6日の朝、8時15分、笹口さんは寄宿舎の食堂で朝ご飯を食べていました。その時突然目の前がぱっと光り、笹口さんは気を失いました。意識を取り戻した時、周りには人が見当たらず真っ暗でした。一筋明るい光が見えたので、そこに向かって外にはい出しました。寄宿舎の外には体にガラスの刺さった人や泣いている大勢いました。笹口さんは大きなけがはなく腰だけが痛かったそうです。
その後、友達と2人で宇品の神田神社へ避難しました。神田神社では火傷をした人の治療を行ったおり、笹口さんは見るのが耐えられず公園に行きました。その後、先生から実践女学校(現在の広島修道大学附属鈴峯女子中学高等学校)へ避難するように指示され、原爆の被害の大きかった旧市街を抜けて、友達と一緒に実践女学校に向かいました。
実践女学校に向かう途中に被爆した人の行列を見たそうです。体は焼けており、亡霊のようでした。井戸に頭を突っ込んでいる人、川には上や下を向いたいる死体を見たそうです。その光景が忘れられないとおっしゃっていました。
その途中、一組の姉妹を見て、お姉さんの安否が気になりだしました。その後、実践女学校に着くと、そこでお姉さんと出会うことができ、それから2~3日は被爆した人の看病にあたっていました。
原爆投下から、3日後に電車は復旧しましたが、広島電鉄の
人から電車を動かしたいから車掌してくれないかと頼まれ、笹口さんは車掌の仕事を務めました。その時の電車の運賃は無料で、乗客は電車の復旧を喜んでいたそうです。笹口さんは今も電車が走っている姿を見ると良かったなと思う、女性の車掌さんを見ると懐かしいと話していらっしゃいました。電車は広島の復興の象徴であり現在も人々の大切な交通手段として受け継がていると感じました。
笹口さんは、戦争は残虐でこれほどつまらないものはないとおっしゃっていました。笹口さんのお話を聞いて、私たちはこれからも被爆者の方々のお話を聞き、その証言を世界に伝え、平和を訴えていきたいと思いました。(荒井)
2015年11月9日、笹口さんのご自宅で証言収録を行いました。
インタビュアーは高1の中村です。
笹口さんは昭和6年生まれの84歳です。原爆当時は14歳でした。当時の家族構成はご両親、お姉さん、弟でお母さんと弟は島根県、お姉さんと笹口さんは広島電鉄の学校の寮で暮らしていました。
8月6日の朝、8時15分、笹口さんは寄宿舎の食堂で朝ご飯を食べていました。その時突然目の前がぱっと光り、笹口さんは気を失いました。意識を取り戻した時、周りには人が見当たらず真っ暗でした。一筋明るい光が見えたので、そこに向かって外にはい出しました。寄宿舎の外には体にガラスの刺さった人や泣いている大勢いました。笹口さんは大きなけがはなく腰だけが痛かったそうです。
当時の笹口さん(右) |
実践女学校に向かう途中に被爆した人の行列を見たそうです。体は焼けており、亡霊のようでした。井戸に頭を突っ込んでいる人、川には上や下を向いたいる死体を見たそうです。その光景が忘れられないとおっしゃっていました。
その途中、一組の姉妹を見て、お姉さんの安否が気になりだしました。その後、実践女学校に着くと、そこでお姉さんと出会うことができ、それから2~3日は被爆した人の看病にあたっていました。
原爆投下から、3日後に電車は復旧しましたが、広島電鉄の
人から電車を動かしたいから車掌してくれないかと頼まれ、笹口さんは車掌の仕事を務めました。その時の電車の運賃は無料で、乗客は電車の復旧を喜んでいたそうです。笹口さんは今も電車が走っている姿を見ると良かったなと思う、女性の車掌さんを見ると懐かしいと話していらっしゃいました。電車は広島の復興の象徴であり現在も人々の大切な交通手段として受け継がていると感じました。
笹口さんは、戦争は残虐でこれほどつまらないものはないとおっしゃっていました。笹口さんのお話を聞いて、私たちはこれからも被爆者の方々のお話を聞き、その証言を世界に伝え、平和を訴えていきたいと思いました。(荒井)