2012年7月23日月曜日

☆20120721山崎寛治さん証言収録

2012年7月23日月曜日 14:51

今日は山崎寛治さんの証言収録を女学院で行いました。
インタビュアーは高2の井上です。



山崎さんは昭和3年1月17日生まれの83歳です。
被爆したのは17歳のときで、広島二中(現在の観音高校)で1年生に教練を教えていました。
教練というのは敬礼の仕方、歩き方、銃の撃ち方などのことです。
当時は母親と名古屋から疎開してきたいとこ家族6人の計8人で暮らしておられました。


8月6日は事務作業のため学校に行っておられました。教室に入った瞬間、原爆が炸裂し、建物の下敷きになりました。気がついた時はすでに夕方でした。まわりには目が飛び出した人、腕が無い人がたくさんおり、口々に「アメリカがやったんだ!敵をとってくれ!」と叫び、亡くなっていったそうです。
山崎さんは手の指の骨が折れ、全身にガラスが刺さりました。顔や腕は黒い雨のため真っ黒でした。


翌日、足を負傷していたため歩くことができなかったので、這って中島町にある実家に向かいました。山崎さんの実家は現在の原爆資料館の売店あたりです。
今の平和公園のあたりは一面焼け野原で瀬戸内海が見えました。近辺で建物疎開作業をしていた市立高等女学校の生徒たちや男子学生たちが一列になって亡くなっていました。生きている人間はいませんでした。また、当時の鉄で出来たお風呂は残っており、水を求めてその中に入ったと思われるひとたちがそのまま亡くなっていました。


8月7日、山崎さんがあたりを見回すと一面が真っ白で昨日まであった遺体がなくなっていました。なんと遺体に無数のうじ虫がわいていたのです。
そんななか、奇跡的に生き残ったいとこの健太郎さんに会うことができました。そのとき初めて肉親に会えて本当に嬉しかったそうです。
名古屋から健太郎さんの父親も駆けつけ、みんなで家族の遺骨を探しましたが、結局見つかりませんでした。なので山崎さんの家のお墓には母親やいとこたちの遺骨は入っていません。


戦争が終わり8月20日頃、髪が抜けはじめました。昨日まで元気だったひとが血を吐き、体が腐って亡くなっていきました。そのとき「アメリカは毒ガスが入った爆弾を落としたんだ」と皆が思ったそうです。山崎さんはこの現象がとても恐ろしかったとおっしゃっていました。わたしたちも改めて原爆症の恐ろしさを感じました。


いとこの健太郎さんは名古屋に帰って4日後に髪が抜ける、体に斑点ができるなどの症状がでて、8月26日に亡くなったという話を10月にはいって聞きました。弟のように可愛がっていた健太郎さんの死をとても悲しみました。山崎さんはいまでも健太郎さんの写真を持ち歩き、大事にしていらっしゃいます。

戦後は東京の大学に通いました。戦争孤児になった山崎さんはたくさんのアルバイトをして授業料を稼ぎました。駅に来たひとを案内したり、銀座でものを売ったりしました。



ジュネーブ条約では、「毒ガスを使うこと」「民間人を殺戮すること」は禁止されています。原子爆弾はそのどちらにも反しています。アメリカは日本との戦争で明らかに優位であるにも関わらず、日本に2発も原爆を落とした。しかしアメリカはそのことに対し謝罪もない。そのことに山崎さんは憤慨しておられました。

わたしたち若者に伝えたいことは、友人を大切にしてほしい、ということです。自分が生きてこれたのは友人たちがいたからだとおっしゃっていました。
わたしたちは学校に行ったらすぐ友達に会うことができます。明日いなくなる、などと考えることはないでしょう。すぐ会えるからこそお互いを尊重しあうことが大切だと感じました。



山崎さんのいとこの米川綾子(よねかわ あやこ)さんは広島女学院に通っておられ、わたしたちの先輩です!
広島駅の近くで作業中に被爆し、亡くなられました。広島女学院の東校地にある慰霊碑にも名前があります。証言収録が終わった後、慰霊碑
の前で黙祷を捧げました。
肉親に女学院生がいるということでわたしたちも身近に感じられました。



貴重なお話ありがとうございました。(金森)


2012年3月26日月曜日

★今中茂さん証言動画収録(20120324)

2012年3月26日月曜日 10:42

2012年3月24日(土)



今中茂さんの証言収録に西条まで行ってきました。
インタビュアーは1年の源です。
西条はとてものどかで空気が澄んでいました。



今中さんはなんと大正7年5月10日生まれの94歳です!
今中さんは太平洋戦争前、中国の支那(シナ)に
兵隊として派遣され戦場で戦っておられました。戦場では日本軍の10人中5人が仲間が援護するために撃った銃弾に当たり亡くなったという衝撃的なお話も聞くことが出来ました。



戦場から帰ってきた後、今中さんは中国電力に務められました。
当時の食料は7分3分のごはんといって7割が米、3割が麦をつぶしたものだったそうです。

8月6日、今中さんは軍から招集を受け西条の農学校におられました。突然ピカッという光りを感じ、しばらくしてもの凄い爆音がきこえ、火薬庫が爆発したのではないかと思いました。広島のほうを見るときのこ雲が見えたそうです。知り合いの安否を確認するために中国電力に電話をかけましたが、繋がりませんでした。夕方になって広島から西条にきた負傷者に何が起こったのか聞くと「広島がなくなった。」と言われました。


翌日広島に入り、入市被爆しました。その時初めて広島に起こったことを知りました。生き残った人たちを福屋などに集め傷の手当てをしましたが、薬もほとんどないため傷口が化膿しハエがたかっていました。死体やがれきは穴に埋め次々と燃やしました。なので誰の遺骨かは分からなくなってしまいました。「こんなにたくさんの死体を見たのは初めてだった。」とおっしゃっていました。かろうじて生き残った人々も1週間以内に亡くなられました。今中さん自身も大腸癌などを患ったそうです。


最後に後世に伝えていきたいことを聞くと。。。
「戦争は絶対してはいけない。戦争は敵だけでなく仲間も傷つける。
仲間達は死ぬ間際に『お母さん』と言って亡くなりました。お母さんになるあなた達にこの悲しみを味わってほしくない。だから戦争はするべきじゃない。」とおっしゃっていました。

この思いを私達が伝えていかなければいけないと思いました。



インタビューの後カレーやケーキを振る舞ってくださいました。とてもおいしかったです!

貴重なお話ありがとうございました。(金森)

2012年2月4日土曜日

☆20120204二口正次郎さん原爆ドーム保存工事証言動画収録

2012年2月4日土曜日 15:29

2012年2月4日(土)

今日は二口正次郎さんの原爆ドーム保存工事についての証言収録を行いました。

今回のインタビュアーは一年の民谷でした。

今回の収録は学校で行いました。







二口さんは第一回と第二回の原爆ドームの保存工事をされました。
初めてのことだらけの工事だったそうです。

初めに1cm幅のドリルを使っただけで大きな壁が揺れだしたので、すぐに中断したそうです。その後広島大学と一緒にテストピースを作り検査をしたり、鉄骨でドームの周囲を壁で囲い、その壁をパイプで支えて絶対に動かないように固定したりして、作業したそうです。
その時に使ったエポキシ樹脂の費用が不足したので、広島市が大阪で募金を行い資金をまかなったそうです。 

ブロックの隙間に蛇の巣やスズメの巣を見つけたこともあったそうです。
原爆ドーム保存工事では、「破壊にならないように」を合い言葉とし、いつも保存工事が破壊工事にならないように…心がけて作業していたそうです。


二口さんはとても90歳とは思えないほど元気で、ハキハキしていらっしゃいました!
今まで全く知らなかった原爆ドーム保存工事の大変さ、原爆ドームが今もなお残っていることに改めて感動させられました。
本当に貴重なお話をありがとうございました。
        
                                                   (民谷唯)