2013年5月30日木曜日

☆0326今道徹雄さん証言集録

2013年5月30日木曜日 17:14
3月26日(火)

今道徹雄(いまみち てつお)さんの証言集録を安佐南区にある今道さんの自宅で行いました。
インタビュアーは高2の櫃本です。

今道さんは昭和11年1月5日生まれの77歳です。
長崎県出身である今道さんは9歳の時、父親が広島の造船所に転勤になったために、両親と兄、当時5歳と2歳の弟2人と共に広島に移り住みました。
しかししばらくして、父親は朝鮮の戦場に行くことになり、母親と兄弟たちと広島に残りました。母親が造船所の食堂で働くことで生計をたてていました。今道さんは学校を休み弟たちの面倒を見ていました。




8月6日、今道さんは弟たちと爆心地から4キロの場所にある自宅にいらっしゃいました。朝食を食べ終え、後片付けをしている時でした。突然青白い光に包まれ、その後ドーンという大きな音が聞こえ、強い爆風に吹き飛ばされました。気づいたら家中の家具や襖が吹き飛んで、家の中がめちゃくちゃでした。
幸い大きな怪我はなく、すぐに弟2人を探しました。弟たちを探している時間はとても長く感じたそうです。弟たちを両脇に抱え込み、近くの防空壕に行き、母親の帰りを待ちました。防空壕の中にも血まみれの人がたくさんいたそうです。母親と無事会うことが出来たとき、はじめて緊張がとけたとおっしゃっていました。兄も光線で脚に火傷を負ったものの、命は助かりました。


 8月9日早朝、家族5人、己斐駅から電車で長崎に帰りました。岩国駅周辺には爆撃の跡がクレーターのように残っていました。水がなくなったので、電車が駅で止まっている間に水をくみに行きました。すると電車が発車しそうになったこともあったそうです。
しかし長崎にも原爆が落とされ、長崎駅の手前の駅までしか電車が止まりませんでした。そこでみんなで被爆直後の爆心地の長崎の町を歩いて家に帰りました。アメリカ軍の飛行機が偵察のためか、時には操縦士の顔が見えるほど近くに降りてきました。そのたびに崩れた家の影や、防空壕の中に隠れながら進んでいきました。その時、恐いという感情はなく、ひたすらに家に帰っておいしいものを食べるんだ、ということを考えていたそうです。
家は無事だったのでしばらくは長崎で生活しました。


1ヶ月後、父親が無事に戦場から帰ってきて、再び広島で家族みんなで暮らし始めました。食糧不足のため、土地を買って麦畑などを作ったり、山で葉っぱを採ってきたり、カエルを捕まえたりして食料を確保していました。時には闇市でドーナツを買って食べました。この頃はとにかく自分達の食料を確保しなければ、という思いでいっぱいだったそうです。
そんな中、当時2歳だった弟が原爆症のため亡くなってしまいました。今道さんはもし、長崎の町を歩いていなければ、弟は原爆症にならなかったのではないかと考えるときがあるとおっしゃっていました。

弟の面倒を見るために長く学校を休んでいた今道さんですが、担任の先生と話し合った結果、留年することはなく、また学校に通い始めました。

広島と長崎の両方で被爆された今道さんは、福島第1原発事故による被曝者への制度を整えてほしいとおっしゃっていました。今道さんも放射線の影響による大きな病気を何度も患われました。福島の被曝者の未来をとても心配されていました。広島の原爆を学んでいる私たちが、福島の事も学び、二度と新たな被曝者を出さないように広島の被爆者から継承されたことを後世に残していきたいと思いました。(金森)


2013年4月6日土曜日

☆20130309 スティーブン・リーパーさん インタビュー

2013年4月6日土曜日 16:49
3月9日にスティーブン・リーパーさんのインタビューを広島女学院の第1AVにて行いました。インタビュアーは英語科の高見先生です。
スティーブン・リーパーさんは広島平和文化センターの理事長で今年度をもって辞任されるということでお話を伺いました。来年度より広島女学院大学で教鞭をとられます。
リーパーさんにはいくつかの質問をしました。

①理事長をしていて最も印象的だった事はなんですか?

2020ビジョンの組織をヨーロッパ(ベルギー)でつくれたことです。今までは広島だけでしたがネットワークを広げることが出来ました。3月1日現在、5551の市長が加盟しています。4年一度の総会が今年の8月に広島で開かれます。

②成し遂げた事、成し遂げられなかった事はありますか?

成し遂げた事
4人の非日本人(アメリカ・ヨーロッパ)の方をやとった事です。
その方達がキャンペ二アーとなり多くの市長を集めてくれたことです。アフリカや南米でもキャンペ二アーが増えているそうです。「101の原爆展」(2007年10月~2008年11月)をアメリカで開けたことです。これには女学院の卒業生の方も関わっています。

成し遂げられなかった事
十分なお金が集められなかったことです。資金集め計画(チャリティーコンサートなど)を行っていきたいです。

③理事長としてどんな感想をお持ちですか?

日本が核兵器保有国の強い国に従っていて、はっきりと核兵器廃絶することを言及できていないことを思いました。

④日本政府に対してどんな意見をお持ちですか?

外務の省(政府)がもっと核の傘には入らないという強い意志を持つべきである。日本はアメリカに依存している。日本は今、アメリカの防力の上にできている。

⑤リーパーさんが平和活動を始めるきっかけとなった出来事は?

広島に来たことです。広島に来るまでは平和について考ええたことがありませんでした。
森滝市郎さんの「力の文明から卒業して愛の文明にならなければならない」という本の中の文に影響をうけました。力の文明とは、正義のためには暴力が必要だという考えです。

⑥リーパーさんにとって平和とは?

平和は社会的健康。地球を健康にすることが平和である。平和はみんなが健康であること。
今は地球そのものと全ての人間が健康になることを考えることが平和に繋がると思う。


~リーパーさんのお話を聞いての感想~
平和と環境問題を結びつけて考えていらっしゃることに驚きました。広島に住んでいる者として自分に何が出来るか考えていかなければいけないと思いました。

貴重なお話ありがとうございました。
                             (河原・村上)

2013年3月26日火曜日

☆20120929佐々木陸子さん証言収録

2013年3月26日火曜日 17:05

今日は佐々木陸子さんの証言収録を佐々木さん宅で行いました。インタビュアーは高2の丹羽です。 

佐々木さんは昭和8年2月8日生まれの79歳で、12歳の時に比治山女学校の中で被爆されました。家族構成は父、母、姉3人の6人家族でした。8月6日佐々木さんは建物疎開の後片付けに行く予定でしたが、警戒警報が鳴ったので学校に向かいました。教室の掃除後、腹痛のため友人の膝の上に横になっていたところ目をつぶっているのにまわりが明るくなり、次の瞬間もの凄い音がし、気づいたときには耳を押さえてしゃがんでいました。まわりを見てみると、一面ガラスだらけでした。その後窓から裸足で校庭に出ると校長先生が血を流しながら生徒達を誘導している姿が見えました。友達もみんな涙を流しながら血だらけだったそうです。そして仁保の山に逃げました。ケガをしていた生徒は先生におんぶされ逃げました。

  しばらくして帰宅許可が下りたため自宅に向かいました。それまでには屋根が吹き飛ばされ、ガラスも割れ形のみ残った家ばかりで、「自分の家だけは無事でありますように」と拝みながら帰ったそうです。しかし自宅はガラスが散乱し、風呂場もガラスの破片で埋め尽くされていました。畳が爆風により浮きその間にインク瓶がはさまっていました。両親は防空壕に逃げており、それを兵隊の方に聞いた佐々木さんはすぐにそこに向かいました。防空壕の中で両親と再会し抱きしめ合ったそうです。家の近くの兵役所には中心地からけがをした人々が送り込まれ看護婦の方は救護にあたっていました。
  その後親戚のいた宮島に行く途中に見た光景が今でも忘れられないそうです。的場町のあたりは建物は全てなく一面焼け野原で「こんなにも広島は小さかったのか」と思われたそうです。福屋前にあった大きな水槽にはやけどをした、たくさんの人が重なり合って亡くなっていました。福屋の地下からは助けを求める声が聞こえましたが何もできず通りすぎました。橋が落ちていたため電車の鉄橋を渡った佐々木さんはふと立ち止まり下を見ると、そこには2倍3倍にも体がふくれあがった死体が川に浮いていました。紙屋町の電車の中では手すりを持ったままの人や、降りようとして片足を上げたまま真っ黒焦げになっている人がいました。

(金森)