☆20150718 田中稔子さん 証言収録
2015年7月18日、田中稔子さんの英語と日本語の証言収録を行いました。場所は広島女学院高校校舎の放送室です。インタビュアーは高1の和田です。
田中さんは1939年生まれの76歳です。被爆当時は6歳と10ヵ月でした。当時の家族構成はご両親、祖母、妹で、爆心地から2.3キロ離れた牛田町で暮らしていました。お父様は出兵中でした。
8月6日の朝、8時15分、小学校に行く途中に原子爆弾が投下され、頭と右腕、左後ろ首に火傷を負ったそうです。口の中に砂埃がいっぱい入りました。じゃりじゃりとした不気味な感覚を今も覚えているそうです。なんとか家に帰ると家は滅茶苦茶でした。その後母と妹と再会することができましたが未だに祖母は行方不明の
まま、遺体すら帰ってきていません。壊れた家の前を幽霊の行列のように大勢の瀕死の人達が両手尾前に伸ばして、肩から剥げ落ちた自身の腕の皮を、爪先にぶら下げていたそうです。田中さんは今でもバーベキュウのトマトをみると一瞬フラシュバックしてゾッとするそうです。田中さんは、火傷が痛く泣いているときに見た青空の美しさに元気づけられたそうです。どんな困難な時にも、前向きに生きて来られたのは、そのおかげだとおっしゃいました。
戦後まもなくは被爆証言はせず、七宝焼きの作家として活動をしてきましたが、ベトナム戦争や他国の紛争のことを知り、色々な場所に行く中で、海外の人たちから戦争を終結させ核兵器を廃絶するには、あなたが体験を話すべきと勧められ、証言活動を始めました。原爆で亡くなった自分の小学校の同級生たちが、一家が全滅したことで、生まれてきた記録も亡くなった記録も何も残っていないことにあるとき、気が付き、その子たちが生きていたことを、証言を通じて伝えようとも思ったそうです。2007年から2015年にかけて3回、NGOのピースボードに乗り、延べ9ヵ月以上世界で、被爆証言をし、平和交流しました。この6年間で計10回、米国内の高校や大学を回り、「核のない世界」を訴えています。あわせて80か国で証言活動を行ったそうです。また、田中さんは壁面七宝の作品でメッセージを伝えることもあります。被爆から50年以上、作品で正面から原爆と向き合うことができず、でも原爆に関することを加えないと作品が完成しないという葛藤から、曖昧に作品の中に表現をしてきました。でも今は、戦争や核兵器を次世代に体験させないためには、言葉でも、作品でも、はっきりと世界にメッセージを伝えることが責務だと思っているそうです。原爆を落とした相手を恨むのはなく、誰かを勝手に批判したり非難したりするのでなく、柔軟に心を開いて、わかりあうことが大事だと、トルーマン大統領のお孫さんやエノラゲイのパイロットのお孫さんとも、友人になり、ともに平和を構築していらっしゃる田中さんは、「民族や国籍を超えて、世界中に親しい友人を作ってください。お互いの価値観や正義がぶつかり、傷つくこともあるけれど、それを乗り越えていき、それぞれが柔軟になり、人間力があがれば、それが世界平和につながるから」とおっしゃいました。また、8月6日に本校で被爆し、亡くなられた英語教諭、田中彦七先生の名前を継いだ甥とご結婚されたことから、「今日の証言が供養になると嬉しいです。」とおっしゃいました。私達みんなで慰霊碑に黙祷し、平和構築を誓いました。