2016年2月23日火曜日

☆20150607 庭木輝子さん 高林節美さん 証言収録

2016年2月23日火曜日 17:06
2015年6月7日に庭木輝子さんと高林節美さんの証言収録を行いました。今回は姉妹での収録でした。場所はご自宅です。インタビュアーは高2の並川です。


 庭木さんは大正13年10月10日生れの90歳で、高林さんは昭和2年3月1日生れの88歳です。被爆当時は、輝子さんが20歳、節美さんが18歳でした。当時の家族構成は、両親と三人姉妹の5人家族で、爆心地から35キロ離れた白木町で暮らしていました。お父様と輝子さんと節美さんは東洋工業(現在のマツダ)で働いていました。一番下の妹さんは学徒動員で、山口県に行っていました。


 8月6日の朝は、お母様とたまたま体調がすぐれなかったお父様を家に残し、輝子さんと節美さんはいつものように勤務地の東洋工業に向かいました。爆心地から約5キロ離れた位置にありました。輝子さんは更衣室にいたとき、節美さんは仕事につこうとしていた時に、原子爆弾が投下されました。輝子さんはロッカーの下敷きになり、窓ガラスの破片で頭をきり、一瞬気を失いましたが、すぐに上司に助けられました。節美さんはとっさに机の下に隠れました。二人とも何が起こったのかわからず、会社の近くにある変電所で

事故が起こったのかと思ったそうです。原爆投下直後、何回か空襲がありました。その後、市内からけが人をのせたトラックがやってきて、救護係だったお二人は、火傷を負った人に油を塗ったり、タオルを水で濡らして冷やしたりして治療をしました。その火傷は、湯たんぽのような水ぶくれになっていて、皮膚が垂れていました。「水をくれ。水をくれ。」と叫んでいた人、服が焼けて裸になった人、川に浮いていた人を目にしました。
 夕方家に帰るため、二人で歩いて広島駅に向かいました。広島駅の辺りは、壊滅状態で建物が何もなく、遠い己斐の方まで見渡すことができました。汽車は通っていませんでした。矢賀駅まで歩いて行くと、そこでは汽車が動いていました。人がとても多く、外側につかまっている人もいました。なんとか、乗車して家まで帰りました。
 家族全員、軽傷はありましたが無事でした。その後お父様は、8月6日に市内で建物疎開を行っていた同僚の安否を確認するために、市内に行き、入市被爆をしました。


当時は、被爆していることを知られると結婚できないといわれていたため、被爆のことは隠していました。そのため、原爆手帳は27年後の昭和47年に発行されました。お二人は特に原爆の後遺症はありませんでしたが、節美さんは現在、心臓の病を患っています。終戦後、生れた輝子さんの1人目の息子さんは、2歳のある日、突然白血病とおもわれる症状を発病後、日赤病院に入院し、ABCCというアメリカの調査団に血液検査をされました。まもなく亡くなりました。当時は原爆に関する情報に規制がかかっていたため、原爆症とは診断されませんでしたが、同じような症状で外傷のない子どもが多く亡くなっていたため、みな「原爆の毒にやられた」と噂していました。

 輝子さんと節美さんのお話を聞いて、当時は隠されていた原爆による影響を、被爆した本人だけでなく、まだ生まれていなかった子どもの命まで原爆は奪ったという事実や正しい知識と共に、伝えていくことが必要であるとわかりました。   
                                                    (和田、山口)

2016年2月10日水曜日

☆20151217 南肇さん 証言収録

2016年2月10日水曜日 17:13
20151217日に南肇(みなみ はじめ)さんのご自宅で証言収録を行いました。
インタビュアーは高2の山口安奈です。
 南さんは昭和4年11月3日生まれの86歳です。被爆当時は16歳でした。勉強が好きで、中学一年で班長を務めるほどしっかり者でした。ご両親と6人の妹さんの9人家族です。ご家族は爆心地から40キロ離れた安芸高田市で生活していましたが、南さんは広島市千田町の県立工業高校に通っているため寮生活を送っていました。
中学1年のはじめから戦争のため、勉強のかわりに学徒動員として飛行機の部品を作る工場(吉島羽衣町3丁目倉敷航空機製作所吉島工場)で働いていました。

 86日の朝は早くから頑丈な防護壁がある工場内の3階建の建物の2階の窓際に座って検査の作業をしていました。815分に原子爆弾が投下され、気が付いたときは爆風でとばされ、うつ伏せで倒れていました。あまりに一瞬の出来事だったので白い光線と爆風を感じたことしか覚えていないそうです。
防護壁も屋根もとばされ、空が見えました。手の甲に火傷を少し負っただけなので、はだしで走って必死で逃げることができました。3階にいた上司が下に落ちて苦しんでいましたが、自分ひとり、会社の防空壕に逃げることしかできませんでした。上司を助けることができないことを悔やんでおられました。また6月までは外で朝礼をしていたけれど、7月からは飛行機の数が足りないという理由から朝礼がなくなったので、屋外にいたため、死なずにすんだとおっしゃっていました。防空後の中で、のどの渇きと空腹との闘いました。夜が更け、暗闇の中、だれかが入った気配を感じました。朝になると高校生の女の子が亡くなっていました。なにもしてあげられなかったことが悔やまれました。
 2日目の夕方、お父さんが高田市から防空壕まで水筒をもって迎えに来てくれました。夏の暑さで水は腐っていましたが、2日間何も飲んでいなかったため、とてもおいしく感じました。
 4日目に友人を探すために聾唖(ろうわ)学校を訪れましたが、火傷をした人たちは薬を塗られて真っ白になっていたので、どれが友人なのか分かりませんでした。その友人は原爆投下直後すぐに亡くなったそうです。
 4日目の午後、4歳年上の友人と安芸高田市のご自宅へ歩いて向かいました。南大橋が壊れていたので鷹野橋に行き、現在の電車通りをひたすら歩きました。産業奨励館の前を通ったとき悲惨な光景を目にしました。電信柱に縛りつけられたまま亡くなっている捕虜のアメリカ兵を、日本人が仕返しにと殴っていました。その時は爆弾を落とした鬼畜米英と思ったけれど、後からかわいそうだと思いました。また、お腹がガスでパンパンに膨れた馬がそのまま倒れて死んでいました。寺町に行くと死体が山のように積み重なっているのを見ました。犬や猫でもあんな扱いは受けないと今も胸が痛むそうです。食べ物も飲み物もないなか、1日かけてようやく自宅にたどり着きました。

 市内にある学校は焼けたので、戦後はそのまま地元で百姓の手伝いをしました。そして「ガラスの里」に就職し、社歌を作詞しました。また、弁論大会に出場したりと戦前には発揮できなかった才能が開花しました。原爆投下直後は手に火傷を負う程度のけがでしたが19歳の時、赤血球に異常が見つかりました。74歳の時には前立腺がんで手術をするなど、何度かいろいろな病気で手術をされました。

 南さんは被爆証言は家族に頼まれても決して話さず今日まで、思い出さないよう努力をしてきましたが、毎年86日には一人で泣いていたそうです。本日の収録の前に南さんご夫妻はご両親のお墓にお参りし、初めて夫婦で原爆当時のことを話したそうです。証言中も何度も「やっぱり話すと記憶が戻って辛い。」と涙を流されました。ご家族も泣いていらっしゃいました。
 南さんの記憶には戦争が引き起こした悲惨な状況が鮮明に残っていました。70年たった今も自分の中で戦後は来ていないとおっしゃいました。私たちは戦争の傷を癒すことは簡単なことではないという事を改めて実感しました。私たちが平和な世界を創ることで、被爆者の方の心を少しでも癒すことができればいいなと思います。


山口 田村