2015年6月7日に庭木輝子さんと高林節美さんの証言収録を行いました。今回は姉妹での収録でした。場所はご自宅です。インタビュアーは高2の並川です。
庭木さんは大正13年10月10日生れの90歳で、高林さんは昭和2年3月1日生れの88歳です。被爆当時は、輝子さんが20歳、節美さんが18歳でした。当時の家族構成は、両親と三人姉妹の5人家族で、爆心地から35キロ離れた白木町で暮らしていました。お父様と輝子さんと節美さんは東洋工業(現在のマツダ)で働いていました。一番下の妹さんは学徒動員で、山口県に行っていました。
8月6日の朝は、お母様とたまたま体調がすぐれなかったお父様を家に残し、輝子さんと節美さんはいつものように勤務地の東洋工業に向かいました。爆心地から約5キロ離れた位置にありました。輝子さんは更衣室にいたとき、節美さんは仕事につこうとしていた時に、原子爆弾が投下されました。輝子さんはロッカーの下敷きになり、窓ガラスの破片で頭をきり、一瞬気を失いましたが、すぐに上司に助けられました。節美さんはとっさに机の下に隠れました。二人とも何が起こったのかわからず、会社の近くにある変電所で
事故が起こったのかと思ったそうです。原爆投下直後、何回か空襲がありました。その後、市内からけが人をのせたトラックがやってきて、救護係だったお二人は、火傷を負った人に油を塗ったり、タオルを水で濡らして冷やしたりして治療をしました。その火傷は、湯たんぽのような水ぶくれになっていて、皮膚が垂れていました。「水をくれ。水をくれ。」と叫んでいた人、服が焼けて裸になった人、川に浮いていた人を目にしました。
夕方家に帰るため、二人で歩いて広島駅に向かいました。広島駅の辺りは、壊滅状態で建物が何もなく、遠い己斐の方まで見渡すことができました。汽車は通っていませんでした。矢賀駅まで歩いて行くと、そこでは汽車が動いていました。人がとても多く、外側につかまっている人もいました。なんとか、乗車して家まで帰りました。
家族全員、軽傷はありましたが無事でした。その後お父様は、8月6日に市内で建物疎開を行っていた同僚の安否を確認するために、市内に行き、入市被爆をしました。
当時は、被爆していることを知られると結婚できないといわれていたため、被爆のことは隠していました。そのため、原爆手帳は27年後の昭和47年に発行されました。お二人は特に原爆の後遺症はありませんでしたが、節美さんは現在、心臓の病を患っています。終戦後、生れた輝子さんの1人目の息子さんは、2歳のある日、突然白血病とおもわれる症状を発病後、日赤病院に入院し、ABCCというアメリカの調査団に血液検査をされました。まもなく亡くなりました。当時は原爆に関する情報に規制がかかっていたため、原爆症とは診断されませんでしたが、同じような症状で外傷のない子どもが多く亡くなっていたため、みな「原爆の毒にやられた」と噂していました。
輝子さんと節美さんのお話を聞いて、当時は隠されていた原爆による影響を、被爆した本人だけでなく、まだ生まれていなかった子どもの命まで原爆は奪ったという事実や正しい知識と共に、伝えていくことが必要であるとわかりました。
(和田、山口)