2015年12月17日に南肇(みなみ はじめ)さんのご自宅で証言収録を行いました。
インタビュアーは高2の山口安奈です。
南さんは昭和4年11月3日生まれの86歳です。被爆当時は16歳でした。勉強が好きで、中学一年で班長を務めるほどしっかり者でした。ご両親と6人の妹さんの9人家族です。ご家族は爆心地から40キロ離れた安芸高田市で生活していましたが、南さんは広島市千田町の県立工業高校に通っているため寮生活を送っていました。
中学1年のはじめから戦争のため、勉強のかわりに学徒動員として飛行機の部品を作る工場(吉島羽衣町3丁目倉敷航空機製作所吉島工場)で働いていました。
8月6日の朝は早くから頑丈な防護壁がある工場内の3階建の建物の2階の窓際に座って検査の作業をしていました。8時15分に原子爆弾が投下され、気が付いたときは爆風でとばされ、うつ伏せで倒れていました。あまりに一瞬の出来事だったので白い光線と爆風を感じたことしか覚えていないそうです。
防護壁も屋根もとばされ、空が見えました。手の甲に火傷を少し負っただけなので、はだしで走って必死で逃げることができました。3階にいた上司が下に落ちて苦しんでいましたが、自分ひとり、会社の防空壕に逃げることしかできませんでした。上司を助けることができないことを悔やんでおられました。また6月までは外で朝礼をしていたけれど、7月からは飛行機の数が足りないという理由から朝礼がなくなったので、屋外にいたため、死なずにすんだとおっしゃっていました。防空後の中で、のどの渇きと空腹との闘いました。夜が更け、暗闇の中、だれかが入った気配を感じました。朝になると高校生の女の子が亡くなっていました。なにもしてあげられなかったことが悔やまれました。
2日目の夕方、お父さんが高田市から防空壕まで水筒をもって迎えに来てくれました。夏の暑さで水は腐っていましたが、2日間何も飲んでいなかったため、とてもおいしく感じました。
4日目に友人を探すために聾唖(ろうわ)学校を訪れましたが、火傷をした人たちは薬を塗られて真っ白になっていたので、どれが友人なのか分かりませんでした。その友人は原爆投下直後すぐに亡くなったそうです。
4日目の午後、4歳年上の友人と安芸高田市のご自宅へ歩いて向かいました。南大橋が壊れていたので鷹野橋に行き、現在の電車通りをひたすら歩きました。産業奨励館の前を通ったとき悲惨な光景を目にしました。電信柱に縛りつけられたまま亡くなっている捕虜のアメリカ兵を、日本人が仕返しにと殴っていました。その時は爆弾を落とした鬼畜米英と思ったけれど、後からかわいそうだと思いました。また、お腹がガスでパンパンに膨れた馬がそのまま倒れて死んでいました。寺町に行くと死体が山のように積み重なっているのを見ました。犬や猫でもあんな扱いは受けないと今も胸が痛むそうです。食べ物も飲み物もないなか、1日かけてようやく自宅にたどり着きました。
市内にある学校は焼けたので、戦後はそのまま地元で百姓の手伝いをしました。そして「ガラスの里」に就職し、社歌を作詞しました。また、弁論大会に出場したりと戦前には発揮できなかった才能が開花しました。原爆投下直後は手に火傷を負う程度のけがでしたが19歳の時、赤血球に異常が見つかりました。74歳の時には前立腺がんで手術をするなど、何度かいろいろな病気で手術をされました。
南さんは被爆証言は家族に頼まれても決して話さず今日まで、思い出さないよう努力をしてきましたが、毎年8月6日には一人で泣いていたそうです。本日の収録の前に南さんご夫妻はご両親のお墓にお参りし、初めて夫婦で原爆当時のことを話したそうです。証言中も何度も「やっぱり話すと記憶が戻って辛い。」と涙を流されました。ご家族も泣いていらっしゃいました。
南さんの記憶には戦争が引き起こした悲惨な状況が鮮明に残っていました。70年たった今も自分の中で戦後は来ていないとおっしゃいました。私たちは戦争の傷を癒すことは簡単なことではないという事を改めて実感しました。私たちが平和な世界を創ることで、被爆者の方の心を少しでも癒すことができればいいなと思います。
山口 田村