2011年5月7日土曜日

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★小方澄子さん被爆証言収録(20110507)

2011年5月7日土曜日 15:09
2011年5月7日(土)13:00~14:00

ヒロシマ・アーカイブ広島女学院高校スタッフによる取材の記録をつけていきます。
よろしくお願いします。

さて、このブログ記事の第1弾は、被爆者の小方澄子さん(79)の被爆証言収録の模様の報告です。
インタビュアーは高2の山崎さん、カメラは同じく高2の室田さんと安藤さんです。

小方さんは、広島女学院高等女学校2年生(13才)の時、市内十日市町(爆心地から700メートル)で被爆されました。突然の轟音に気を失い、気がついたら家の下敷きになっていました。頭上で叫ぶ叔母さんの声に返事をすると、瓦を1枚1枚はがして助け出してくれたそうです。

3才と5才の弟さん、そして叔母さんと共に、必死の思いで西へ西へと逃げ延び、川原にたどりつき我に返ります。すると、背中に3才の弟がしがみついていることを知り、嬉しさのあまり弟を抱きしめて涙を流したとのこと。

しかし、その直後から激しい原爆症に襲われ、下痢と嘔吐に悩まされます。さらに追い打ちをかけるように「黒い雨」に見舞われます。

翌日にはお母さんとも再会でき、無事を喜び合ったものの、それから1週間の野宿生活は、周りの遺体からの悪臭、広島市内の炎の光や水を求める重傷者の声も相まって、地獄絵図そのものだったそうです。

その後高田郡郷野町の親戚宅へ身を寄せることとなります。
4人とも外傷は少ないものの、20日くらい経つと、高熱で倒れてしまいます。叔母さんは内臓から出血があったようで、苦しみ抜きながら32才で亡くなり、小方さんはその横で42℃の高熱で意識を失ったままだったそうです。

幸い小方さんは一命を取り留めますが、頭髪が抜け、体のあちこちに斑点ができ、皮膚がふくれあがり、毛穴から膿が流れ出ます。そのまま半年も伏せたままでしたが、少しずつ回復していきました。
しかし、膿が出て治癒した跡は、筋肉の組織が元通りになることなく、体のあちこちにケロイド状のくぼみができたままです。私たちにその傷跡を見せてくださいました。

終戦後10年して結婚し、子どもさんを育て、力強く生きてこられた小方さんですが、57年間は原爆のことを誰にも語ることはなかったそうです。
しかし、語るつらさを乗り越えて、現在では毎年女学院中学1年生の前でご自分の被爆体験を語ってくださっています。また「9条の会廿日市」などで平和活動に取り組んでおられます。
また、ご自分の被爆体験から、上関原発反対の活動にも取り組んでおられ、このたびの震災に伴う福島原発の事故のことを、とても悲しんでおられました。

昨年ガンで弟さんが天国へ旅立たれたばかりという小方さんのお話を通して、放射線による被曝の恐ろしさを学ぶことができました。身を切るような体験を、ヒロシマ・アーカイブのために語ってくださった小方さんに、心より感謝申し上げます。(矢野一郎)