2011年7月27日水曜日

,

★中国放送(RCC)の取材を受けました(20110726)

2011年7月27日水曜日 20:40
2011年7月26日(火)

RCC(中国放送)の取材を受けました。8月4日(木)15:45~16:40放送の「イブニング・ふぉー」の特集のための取材です。田中俊男アナウンサーと船越一生記者、そして撮影スタッフの2名が来校されました。

まず、チャペルセンターで、室田委員長(高2)、小迫技術チーフ(高2)、民谷委員(高1)の3名がPCでヒロシマ・アーカイブを操作している場面の収録。3人とも上手に操作して、様々な発見をしていました。

カメラマンの方も後ろから一生懸命撮影しています。

その間も3人はあれこれ相談しながら、広島の今と66年前を探索しています。もちろん、愉快な内容ではなく、苦しみ・悲しみに満ちた広島の光景が映し出されています。しかし、それだけではなく、そういった悲惨な光景が今の広島と重ね合わせて表示されることに意味があります。

このしくみを構築された渡邉先生(首都大学東京)とその学生さんたちには、驚嘆するばかりです。

一人でも多くの方がこのサイトを訪れて、新たな知見を得ていただきたいと思います。



田中アナウンサーから矢野がインタビューを受けています。操作者の「AHA!」顔に注目。












この写真では、画面を見ている生徒が3人ともAHA!顔になっています。ヒロシマ・アーカイブは、訪れる皆さんをAHA!顔にするサイトなのです。

それは、広島のかつての惨状=人類史上の悲劇と、立派に蘇った現在の広島が同時に映し出されることで、見る者に希望を与えるという意味でのAHA!体験なのです。





さて、取材の進むこの部屋では、他の様々な作業にいそしむ生徒の姿がありました。

右の写真は、30日から始まる「核廃絶!ヒロシマ・中高生による署名キャンペーン」の結団式で決意表明する安藤委員長が、原稿の仕上げをしている様子。振り返る余裕もないほど真剣に考えています。











左の写真は、上記署名活動のために、小道具を作っている生徒です。

表に立って目立つ働きをする生徒もいれば、このように地道な手作業をする生徒もいる。いろいろな働きが一つになって、一つのプロジェクトが成り立ちます。生徒はそのことを学びつつあります。

ところで、この日の取材の様子や作業の様子を、200枚以上も写真に撮ったジイさん!あなたは何を遊んでまんのや(笑)。でも、その遊び心に満ちたジイさんの働きがあったからこそ、こうしてブログに写真を掲載することができたのです。(矢野一郎)

2011年7月22日金曜日

,

★被爆電車の取材に行きました(20110721)

2011年7月22日金曜日 10:51
2011年7月21日(木)

広島電鉄に被爆電車の取材に行ってきました。企画チームの山広さんと総務チームの山本さんが対応してくださいました。

私たちはまず、お二人に質問に答えていただきました。被爆電車が被爆した場所や、当時誰が運転していたかなど、たくさん質問しました。お二人は、写真や資料を使って、わかりやすく教えてくださいました。



話を伺った後に、被爆した方々の慰霊碑を訪れました。被爆して亡くなった社員の方176柱(昭和52年時点)の名簿が納められているそうです。










その後、被爆電車である652号を見せて頂き、しかも運転席に座らせてもらいました。ちなみに今乗り降りする扉は2つですが、戦時中は扉が3つあったそうです。その閉ざされた扉は今でも残っていました。

また、ラッキーなことに、帰りがけに実際に運行中の651号を見ることができました。

広島電鉄に取材しに行って、被爆電車がこれからも永く運行され続けて欲しいと思いました。今後、昭和20年に運転士をしていた女学生の方の被爆証言を収録し、被爆電車の取材結果をうまくまとめて、ヒロシマ・アーカイブのコンテンツにしていきたいと思いました。(井上ゆ、三浦)



2011年7月20日水曜日

,

★森匡世先生の証言収録をしました(20110720)

2011年7月20日水曜日 13:36
2011年7月20日(火)10:00~12:00、森先生のお宅にて

国語科教員として広島女学院中高で教鞭をとられた森匡世先生の被爆証言を収録しました。山崎さんと千葉さんがカメラを回し、民谷さんが静止画撮影と記録、インタビュアーは安藤です。ちなみに、私安藤の母は、森先生の教え子です。

森先生は19才の専門部生の時、動員先の井口で被爆されました。もし、30分早く原爆が投下されていたら、間違いなく市内中心部で被爆していたということで、戦後「30分の運命」についてずっと考えてこられたそうです。

また、逃げる途中で出会った少女に「おねえちゃん、水をちょうだい」と小さなかわらけのかけらを差し出されたこと、その姿を見て「かわいそう」とも「水を持ってきてあげよう」とも思われなかったそうです。

その少女との出会いが森先生の価値観を変え、「人間とは何か」というテーマを根底に平和や戦争について考え、行動してこられました。その少女に対して何も思わなかった自分。何かしようとしなかった自分。戦争はいかに人間を非人間的にするか、ということを強くおっしゃっていました。

人を殺すということに「正義」なんてない。戦争が戦争を生み、負の連鎖が続くだけ。だから各国のリーダーが武力ではなく対話で解決するように努め、それぞれの国・民族の文化を尊重し合える世界になるのが理想だとおっしゃっていました。そのためには、まず「知る」ことから始め、知って得たエネルギーから行動することが大切。まずは「知る」こと!と繰り返しおっしゃっていました。



森先生は、広島女学院での平和教育の草分け的存在でもあります。戦後、ご自分の被爆体験を生徒に話しても、なかなか理解してもらえなかったので、同時代の平和問題として、ベトナム戦争のことを取り上げられたそうです。

しかし、当時はそれさえもなかなか理解してもらえず、保護者からの抗議も受けたとのこと。それでもベトナム戦争のことを教え続けた森先生の声を真摯に受け止めた生徒たちは、「今」起きている出来事を知ることで現実味を感じ、戦争の愚かさ悲惨さを痛感し、ホワイトハウスに手紙を送ろうとしたそうです。

森先生は、当時の「朝日グラフ」という雑誌を引っ張り出して来られ、「ベトナム戦争ではこんな酷いことが起こっていたのよ」とソンミ村虐殺事件の特集記事を見せてくださいました。





「立っているものは皆殺せ」を合い言葉に、ソンミ村でアメリカ兵が住民を殺し、得意げな表情を浮かべている写真を見て、戦争がいかに人間を非人間的にするか、ということを考えさせられました。

これは日本がアジアで犯した過ちにも言えることだと思います。日本はアジアで犯した過ちをしっかり目を開いて知り、受け止め、謝罪することから、アメリカは原爆によって被爆された方々一人一人の体験を知り、受け止め、嫌悪感を感じることから、平和へ一歩一歩近づくのではないか。そのためにはまず、世界で起きたこと、自分と国が犯した過ち、全人類が犯した過ちを知り、見つめ直すことが一番大切だとおっしゃっていました。

平和というものはそれぞれの日常の中にある。その平和をもう二度と奪われてはいけない、とも語られました。

直接被爆体験をしていない私達が後世に原爆のことを語り継ぐことに対して、直接体験してなくても「追体験」できるから被爆者一人一人の体験を「追体験」し、自分のものにしてから語り継いで欲しい。とおっしゃっていました。

被爆者の方が存在しない世の中が来ることは「継承」という面から考えると、不安なことですが、これからは私達が人類の犯した過ちを語り続ける伝承者であり続ければならないと、誓いを新たにした証言集録でした。(安藤)