2011年11月19日(土)
今日は雨の中、赤木直美さんの証言収録へ行ってきました。インタビュアーは高2の富山です。初めてのインタビュアーで緊張した様子でしたが、赤木さんの優しそうな笑顔で徐々に緊張がほぐれ、和やかな雰囲気の中でインタビューを始めました。
赤木さんは1930年10月11日に5人兄弟の長女としてお生まれになりました。私たちの大先輩であり広島女学院の生徒でした。なんと赤木さんは、広島女学院高等学校および大学の卒業生、第1回生です!
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下される約一週間前まで広島市内の観音町に住み、学徒動員で財務局へ行っていました。しかし、原爆投下の約一週間前に広島から約100㎞離れたところにある、母の知人が住んでいる雄鹿原村へ疎開することになりました。母と、幼い妹と弟も一緒でした。
8月6日の朝、何かが光ったのを感じ外へ飛び出しました。その約30数秒後に、もの凄い爆音を聞きました。とにかく情報が何もなかったため何が起きたのか分からず、近所の人たちと加計の発電所が爆発したのではないか、と話していたそうです。飛んできたきた灰の中に交じっていた文書に鉄砲町と書かれたいたため、広島で何かが起きたのだ、と感じました。
観音町の教会にいた牧師のお父様を探すために、お母様が翌日薬などを持って、広島に向かったそうです。幼い弟妹と共に残された赤木さんは、心細くお母様の連絡をひたすら待ち続けていました。5日ぐらい経って、ようやくお母様から連絡が来て、お父様の無事を確認しました。お父様はブロック塀の側にいたため、熱線や光を浴びず足を骨折しただけで、手当もしてもらうことができたそうです。
赤木さんは、9月半ば過ぎに観音町の自宅や、牛田山にあった学校へいきました。その時横川から見た広島の地には何もなく、ただ比治山と似島が見えただけでした。
10月頃から牛田小学校を借りて、少人数の授業が再開されたそうですが、赤木さん自身は1月から復学されました。お父様は女学院の聖書の先生をなさっていたため、お父様と二人で現在の牛田山荘で暮らすことになりました。
その後、赤木さんは自身の女学院での生活について語ってくださいました。YWCAを設立したお話、授業を抜け出して近隣のYWCAへ遠征に行った話などを伺いました。友人たちと楽しい毎日を過ごしていたようで、私たちと同じ女学院生だったんだな、と実感しました。
最後に、今の女学院生に対して...
「高校で何かを掴んで、深めていけるようなことを見つけなさい。」と
おっしゃいました。
高校生の今、自分の興味のあることを見つけて、
それに向かって邁進していきたいです!!!
赤木さん、本日は本当にありがとうございました。(富山・室田・山岡・脇)