2014年6月13日金曜日

☆20140604 土井史郎さん 証言収録

2014年6月13日金曜日 18:03


2014年6月4日(水)


今日土井さんの証言収録に三滝まで行ってきました。
インタビュアーは高3の久保田です。



土井さんは昭和10年10月23日生まれの78歳です。
当時土井さんは、祖父母とご両親、アメリカ生れの2人の姉,4人の兄がいました。
土井さんが被爆したのは小学校4年生(8歳)の時でした。
8月6日の朝8時になっても先生が来なかったので級長(クラス委員長)としてかくれんぼをすることを提案しました。土井さんはじゃんけんをした結果鬼になり、100数えていました。
すると、近所のおばさんに「子供、敵機じゃ!はよ逃げい!」と言われました。
そして空を見上げるとピカッと光るとともに、5m程離れた教室まで吹き飛ばされたそうです。その時、教室の窓ガラスの破片が後頭部に突き刺さりました。
幸いにも机といすの間に吹き飛ばされた土井さんは、落ちてきた天井に押しつぶされることなく無事に生き残ることができました。


自宅に帰ろうとした時、青年会館の近くのかやぶき屋根の家が光線により火事になっていました。
かやぶき屋根というのは、かやとわらで作られた屋根です。
土井さんが避難してくるのが遅い後輩を待っていると、友人に顔が真っ赤だと言われ、その時初めて土井さんは、自分のシャツやズボンが真っ赤に染まっており、後頭部にガラスが刺さっていることに気付きました。



当時、土井さんの家には、疎開してきた家族と土井さんのご家族を含め、計4家族で暮らしていました。
土井さんのお父さんは三滝の副会長をしており、連日、現在の広島の100m道路で建物疎開の作業をしておられました。8月6日の朝もそこで作業をしていて、被爆しました。爆風により路面電車の線路に倒れ、足首から下が鉄骨の下敷きになってしまい、逃げる事が出来ず、火が回って焼死しました。
後に、土井さんの姉と兄がお父さんを探しに行き、焼死したお父さんのご遺体を見つけました。
そこには、毎日履き替えていた新しい地下足袋と金歯がありました。その金歯は、日本製のように薄くなく厚いもので、アメリカに移民していた頃に入れたものだと、父の妹が断言したため、その近くにある骨が父のものだと思い、周辺の骨を拾い持ち帰ってお墓に納めました。

ご両親とご兄弟は亡くなり、今でもご健在なのは土井さんと1人のお姉さんだけです。


土井さんの身体に最初に異変が起きたのは高校卒業後のことでした。単車(オートバイ)で商売をしていたある日、三滝にある踏切で、踏切が開くのを待っていると、突然意識を失い倒れたそうです。それから一週間程ふらつき出歩く事もままならなかったそうです。
比治山にある病院で検査を受けたところ、被爆の影響による白血球減少と診断され、日赤病院へ移り再検査をすると、白血球の数が3000をきっていました。輸血をしましたが白血球の数は増えず、薬もなく、安静にしながら1年程日赤に通い、落ち着きはしました。しかし、体調が良くなることはなく、今でも炎天下にいると目眩や吐き気がするそうです。



昭和12年に6つの親鸞像が作られましたが、鉄として軍事用に使われたため、広島にあった1つしか残りませんでした。三滝にあった親鸞像は被爆し、直射日光が当たっていたけさの下の部分だけが赤くなっていました。この親鸞像は昭和26年(戦後6年)に広瀬さんによりニューヨークに送られました。土井さんは、直接立ち会ってはいませんが、三滝から横川へ運ばれる写真を今でも大事にとっているそうです。

土井さんにとってこの親鸞像は当たり前にある存在でした。
なので、土井さんご自身も関心をもって見ることがなかったこの親鸞像が、ニューヨークに送られたことはとても良いことだとおっしゃっていました。


土井さんはアメリカを憎まない方がおかしいとおっしゃっていましたが、その一方で、憎んでも仕方がないとあきらめのような、やるせない気持ちを抱いていらっしゃいます。
だからこそ、核兵器は絶対に反対してほしい、と強く思っています。「原爆は無い方がいい。罪のない人も殺すから。善人ばかり死ぬ。悪賢い人はうまい具合に生き残る。」とおっしゃいました。私たちが核兵器廃絶を求める活動をしていることを聞くと「ぜひ、頑張ってもらいたい」と激励してくださいました。

今、原爆の被爆者が減ってきている中、このように生の声を聴ける事はとても貴重なことなので、土井さんの気持ちを無駄にしないようこれからも核兵器廃絶の署名運動を頑張っていきます。


貴重なお話ありがとうございました。 (荒井・大坪・難波)