橋本薫さんにインタビューしました。場所は広島女学院の放送室、インタビュアーは高1の荒井です。
橋本さんは、1929年10月1日のお生まれです。もうすぐ85歳です。
今の広島市中区段原の理髪店の息子です。
7人兄弟の下から2番目の息子として生まれました。
橋本さんは軍族として生まれました。当時は就職するのには、学校からの推薦が必要でした。
橋本さんは、学校からの推薦を受け、広島陸軍兵器補給所というところに勤めていたそうです。
広島陸軍兵器補給所とは、陸軍の兵器を管理するところです。橋本さんは、兵器の修理をしていたそうです。
1945年8月6日、橋本さんは、アメリカに秘密の武器を見られないように、比治山へ隠しに行かれていたそうです。午前8時15分、原爆が投下された時、何が起こったかわからなかったそうです。橋本さんは、数分気絶してしまわれました。
「比治山のおかげで私は助かった。」
原爆投下地と橋本さんがおられたところはとても近く、比治山がなければ橋本さんは即死になっていたそうです。
橋本さんはその時、生きた子どもが「助けてくれぇ。」と言うのを聞かれたそうですが、助けようにも助けることが出来ず申し訳ない気持ちになられたそうです。
原爆投下後、橋本さんは、水を求めて川に飛び込んで亡くなられた方々を素手で引っ張り上げ、トラックに積み、三篠の使われていない水田へ運び、その方々を焼くという作業をされていました。
その作業に2月要しました。橋本さんは10月にようやく家に帰ることが出来たそうです。
橋本さんは、両腕にケロイドが出来てしまい、今もその痛々しい傷が残っていました。
「戦争は、自分の命を犠牲にしても止めるべきだ。」
水を求めて川に飛び込んで亡くなられた方々を目の当たりにされた橋本さんはそのような強い気持ちを抱いておられます。
また、橋本さんは、原爆についてのご自身の意見を語られました。
「原爆は憎いが、原爆が落ちていなかったら日本国民は(地上戦によって)三分の一も残っていなかったと思う。
原爆が落ちたから天皇が降参したのだ。
原爆は悪だが、日本国民を守ったのだ。原爆が落とされたことを恨むべきなのかもしれないが、私は恨んでいない。」
一体どのような出来事が橋本さんをこのように達観することが出来るようにしたのでしょうか。
「人を大切にしていたから、原爆にあっても手の火傷だけで済んだのだ。私は上等の上等ですよ。」
橋本さんの、周りの人を大切にする心が橋本さんの人生を作り出したのでしょう。
私も、橋本さんのようにもっと人を大切に出来るよう、精進していきたいです。
今日は貴重なお話をありがとうございました。(難波)