2014年9月27日(土)豊田文枝さんに、インタビューしました。場所は広島女学院の第1AV教室、インタビュアーは高1の大坪です。
豊田さんは1928年11月3日生まれの86歳です。被爆当時は呉市にお住まいで、広島女子専門学校(現在の広島県立大学)に通われていました。学徒動員で人間魚雷の回天を解体する作業をしていたものも、それはとてもつらい作業で耐えられなくなり転校してすぐ被爆されました。
1945年8月6日8時15分豊田さんは学校の講堂に到着し、一息ついたところでした。気を失い目が覚めるとそこは大きな穴の中。どうにか穴から抜け出した頃にはもう夕方でした。その時には気が付かなかったそうですが、134個ものガラスの破片が頭や顔に刺さっていたそうで頭に包帯を巻かれて重かったと豊田さんは語ります。その後全身火傷を負った見ず知らずの人と共に逃げてゆき無事に自宅まで帰れたそうです。一緒に逃げた人にお礼が言えなかったことが心残りだと何度も言っておられました。
原爆投下後、母親が丁寧に看病をしたおかげで傷痕もそこまで残らずに済んだそうです。しかし、変な爆弾だったのだからという理由で部屋の奥にこもり誰にも会ってはいけないと言われたそうです。部屋から出ることを許されたのは5か月後のことでした。
豊田さんはこうおっしゃいました。
「戦争はしない方がいい。話し合いで解決できるものは話し合いで済ませてほしい」と。
これは被爆者の方が切に祈っておられることだと思います。このような意見が世界に広がればいつか世界が変わる日が訪れるのではないのでしょうか。しかし、その意見を被爆者の方が伝えるのは難しいのが現状です。“その任務をまかせられる=証言を聞く”だと私は日々思っています。
また、「よく今まで生きたと思います。」という言葉を聞き豊田さんの本音なのだと感じました。それと共に今、豊田さんのお話を聞けていることが本当にすごいことだということに改めて感じることが出来ました。
豊田さんは今回が初めての被爆証言だったそうですが、分かりやすく丁寧に話してくださいました。
貴重なお話をありがとうございました。(伊藤・並川)