2015年2月22日に羽山末子さんには羽山さんのお宅でインタビューをしました。インタビュアーは高1の中島です。
羽山さんは昭和2年2月9日生まれの89歳です。被爆当時は18歳でした。当時は現在の向洋に住んでおり、家族構成は、両親と祖父母、兄が2人、姉が2人の五人兄弟の9人でした。
兄は兵隊でした。羽山さんは当時、向洋にあるマツダで事務職をされてました。
羽山さんは朝いつも会社で掃除をすることが日課になっており、8月6日の朝も掃除をされていました。原爆投下直後、外に出てみると大きな建物は3つほどで、あとはすべて焼野原でした。その後自宅に戻り入市被爆されました。自宅に戻る途中、けが人や死体が路上に放置されていました。その人たちの服はボロボロで、皮膚はただれていました。その後当分の間は、その光景が夢に出てきていたそうです。自宅に戻って、天井を見上げると天井板が落下していました。祖母がその屋根の下敷きになり瓦が体に刺さっていましたが、火傷をしていた祖父が助け出しました。
羽山さんは原爆によって顔に擦り傷と目の上を切りました。命に関わるほどのけがではありませんでしたが、目の腫れがひどく治療をする必要がありました。向洋には病院がなかったため、西条の病院まで足を運ぶことになりました。母の実家である西条でその後1か月間過ごしました。
羽山さんは「戦争ほど恐ろしいものはない。戦争をすることは人間がする愚かな行為だ。原爆が投下されたとき、草木も生えないと言われていましたが広島は人々の努力によって復興を遂げました。」とおっしゃいました。
私は羽山さんのお話を聞いて改めて戦争は非人道的な行為であり、罪のない人や大切な人の命までも奪う残虐な行為だと痛感しました。また私たちの知らない被爆者の思いを聞き、残していく必要があると再認識しました。今回は貴重な体験をお話してくださり、ありがとうございました。
(荒井・中島・山口)