2016年6月7日に箕牧智之さんの証言収録を行いました。場所は広島女学院の放送室です。インタビュアーは高2の佐々木です。
箕牧さんは現在74歳で、被爆当時は3歳でした。当時の家族構成は、35歳の父と29歳の母と1歳の弟でした。父親は国鉄職員、母親は主婦でした。
8月6日、8時15分当時箕牧さんは、爆心地から17km離れた自宅前の道路で、弟と遊んでいました。お父さんは仕事で広島市内に行っていました。その時、原子爆弾が投下されました。箕牧さんは広島市の方でピカッとした稲妻のような光を見、大きな音を聞き、「雷か」と思いました。太陽が壊れたとも思ったそうです。箕牧さんは爆心地から遠い場所にいたので直接の被爆はしませんでした。その日の夕方、空からたくさんの紙が舞い降りてきました。その光景はとても不思議で印象的だったそうです。その日、お父さんをいつも通り駅まで迎えに行きましたが、帰ってきませんでした。口伝えに広島市内でひどいことが起きたと聞いたので、翌日から三日間毎日、お母さんは3歳の箕牧さんと1歳の弟を連れて、広島へお父さんを探しに行きました。見つけることはできず、泣く泣く家に戻るとお父さんは自力で家に帰っていました。9日のことでした。国鉄のレールをたどって歩いて戻ったそうです。爆心地近い広島市松原町の勤務地にいたにもかかわらずお父さんが助かったのは、作業着に着替えるために地下にいたためです。
箕牧さんはお父さんを探すために広島市内に入ったとき、大量の放射線を浴びました。残留放射能による入市被爆をしたのです。ずっと病弱な子どもで心臓が常におかしくしょっちゅう熱が出て、いつも疲労感があったそうです。戦後は壊滅し、職を失ったお父さんは田舎で農業や土木作業をしながらみなを養いましたが、貧しく厳しい生活だったそうです。箕牧さんは体が弱く意欲が低かったので、田舎に住む近所の人たちからは、「町のものは怠け者だ」と偏見で見られましたが、ずいぶんのちに原爆の後遺症だったと知りました。また、小学5年生のとき40度の熱がずっと続き、毎日注射したけれど熱がさがらず、もう助からないだろうと言われました。しかし、アメリカから輸入されたストレプトマイシンという注射によって助かりました。12月から3月まで4か月学校を休みましたが、なんとか進級できました。のちに、原爆の子の像のモデルとなった佐々木禎子さんやほかの被爆した子どもたちのことを知り、自分も同じような状態だったのだと思いました。また被爆2世は死産者や多指症など、共通の症状が現れやすいことなども知りました。
箕牧さんは被団協の副理事長を務めてらっしゃいます。被爆者の思いをいろいろな場所で伝え、証言活動もしていらっしゃいます。去年はNPT再検討会議へ行き、被爆者としてNYで核兵器廃絶のデモを行いました。以前アメリカでデモをしたときは沿道のアメリカ人が応援や参加をしたので、今回のデモもアメリカの新聞に載ったり、アメリカ人と一緒に行動したりできると期待していました。が、広島のTVや新聞記者しか取材に来ず、賛同者も現れず、非常に落胆されました。
それでも今回オバマ大統領が広島を訪問し、原爆資料を見て、献花をした姿に希望を持たれています。
箕牧さんは、戦争は人の命を簡単に奪うことができると悲しい顔でおっしゃっていました。外国人の土地や命を奪うことを是とし、過赤紙一枚で自国の若者を強制的に招集し、特攻や人間魚雷のように、彼らを人間としてではなく、武器として使い、戦争反対者はリンチをして黙らせていたと悲しそうにおっしゃいました。
箕牧さんはアメリカ人と話すときは日本の真珠湾攻撃について謝罪されるそうです。また、私たち若者は絶対将来戦争に巻き込まれそうになったら、戦争反対!と訴え、教師は教え子を戦場に送らないように、とおっしゃいました。
(森下、金沢、山口)