2016年5月7日に清水弘士(しみずひろし)さんの証言収録を行いました。場所は広島女学院高校、インタビュアーは高2徳弘有香です。
清水さんは1942年6月28日生まれで現在73歳です。被爆当時は3歳2か月弱で、爆心地から1.6km離れた広島市吉島町(現広島市中区吉島町)で被爆されました。家族構成は、父、母、10歳上の兄です。
原子爆弾が投下される前日1945年8月5日(日)、夜は空襲警報が鳴っていました。普通は警報がなると人々は家から出て防空壕に逃げますが、広島では警報が鳴っても爆弾が落とされなかったため、避難しない人も多かったそうです。8月6日以前に広島に爆弾が落とさなかったのは、原子爆弾の威力と被害をアメリカが調べるためだったと言われています。
8月6日の朝7時過ぎに警報が鳴りましたが、7時31分に解除されたので、お父さんは爆心地から約1kmの広島県農業会(現JA)に出勤しました。お兄さんは、遠く離れた庄原の寺に農村動員で寄宿していました。清水さんはお母さんと二人で爆心地から1.6kmにある吉島町の自宅にいました。庭で飼っていたウサギにエサをやり、遊んだ後、家に入った瞬間、爆発しました。大きな音がした瞬間、お母さんは清水さんを抱えてしゃがみました。意識が戻ると倒壊した家の中にいたので、お母さんは5分から10分かけて、屋根を突き破り、清水さんを引き上げ、抱きかかえて、避難場所に指定されていた吉島刑務所へ逃げました。逃げる最中、清水さんはお母さんに「べべ(洋服)は?飯台は?ミシンは?うさちゃんは?」と聞いたそうです。清水さんは着ていたはずの服が脱げ、裸でした。洋服を作る内職をしていたお母さんにとって大事なミシンやうさぎを置いて逃げたため、幼心にも異変が起こったとわかり、心配したそうです。空は、朝なのに夕暮れのようだったこと、そして人のかたまりが逃げていたことを覚えていらっしゃいます。清水さん母子は川沿いに南に向かって逃げたため、爆心地での惨状は見ずにすみました。が、翌日父親を捜しに勤務先に行く途中で、たくさんの川に浮く死体を見ました。勤務先で生存者のリストに父親の名前がなかったので、お母さんは亡くなったと思い、瓦礫に向かって手をあわせました。その姿を今も鮮明に覚えているそうです。
幸運にも、昼ごろ父親が戻ってきて再会できました。
お父さんは、原爆投下時、仕事を始めようと机についた瞬間吹き飛ばされました。出納係の仕事だったので、閃光で窓口の金網の痕が顔に焼き付き、全身火傷しました。爆心地から1kmで被爆されましたが、「ドーン!」という音は聞かなかったそうです。この証言は、爆心地付近で被爆された方に共通しています。ガラス窓が割れた中に、倒れていました。気が付いたときは、3000度といわれる熱線と爆風がまたたくまに広がったといわれる中、お父さんも炎の竜巻で囲まれていたので、必死で池の中に逃げました。火が収まり、赤十字病院に向かう途中で意識を失っているところを誰かに助けられたらしく、翌朝、赤十字病院の玄関前で意識を取り戻し、その後、家族と再会しました。
7日の夕方、8km離れた草津に住む叔父さんが助けに来たので、家族3人で草津に避難しました。お兄さんと再会を願い、お母さんは自宅付近の刑務所に一度戻り、壁に草津にいると伝言を残しました。草津には食べ物がなかったので、4日後、母親の姉が嫁いだ山口県の大島に疎開しました。再度刑務所の壁に山口に行くと伝言を残しましたが、お兄さんには会えませんでした。市内には腐敗した死体や死体を焼くにおいが充満し、普段より大きく刺す力が強いハエが大量発生していました。生き残った人のやけどに群がり、卵をうみつけるので、みな体中に湧く蛆虫に苦しんだそうです。
疎開先の山口でも食料が不足したので、迷惑をかけられないと約1か月後、広島に戻りました。お父さんは体が弱って動けなくなっていました。マツダスタジアムの近くにあった叔父の半壊状態のアパートをなんとか直し、9月16日から住み始めました。9月下旬に帰ってきたお兄さんと4人で暮らしていましたが、原爆投下後から2か月後の10月8日、お父さんは亡くなりました。しょっちゅう体からガラス片が出てきて、亡くなったときお腹は真っ黒でした。当時は原因がわからないまま同じように亡くなる被爆者を見て、「原爆のガスにあたったからお腹が黒くなって死んだ」と推測しました。何年もたったのちに放射線のことを知り、爆心地近くで大量の放射線を浴びた父親は、体内組織を破壊され、内部から腐って亡くなったとわかりました。
父方の親戚とつながりがなくなったため、家を出ていかざるをえませんでした。広島駅付近の闇市で、始めは自宅に埋めていた甕に残った塩や農民や漁民から仕入れた果物や貝を売り、その後は陶磁器を売って生活しました。バラックの畳2畳の小屋に母子3人寝泊まりしました。生活はとても厳しく、お母さんは懸命に働き、休日は横たわったまま、全く笑顔を見せなかったそうです。もっと年を取ってからよく笑う明るい人に戻ったそうですが、原爆症の脊髄の痛みにずっと苦しみました。
清水さんも3歳から13歳までずっと原爆後遺症に苦しみました。頻繁にひどい下痢と腹痛におそわれました。同じような症状の被爆者を解剖した結果、放射能で細胞が破壊され、小腸の繊毛がなくなり、消化がうまくできないことが原因だとわかりました。また、清水さんは擦り傷も半年ぐらい治らず、しょっちゅう膿んだそうです。意欲もわかず、疲労感にさいなまれました。のちに「原爆ぶらぶら病」とよばれる症状が出ていたそうです。放射能で血小板が減ったため、血が凝固せず、寝ている間に鼻血がでて、布団が真っ赤に染まったことも多々ありました。
今回の収録で清水さんはご自身の体験だけではなく、原子爆弾の投下についての知識や、放射能による健康被害、戦後の生活やそれに関連したことなど教えてくださいました。私たちにとって初めて知ることばかりでとても勉強になりました。直接被爆の研究はあるが、黒い雨や放射能汚染された空気を吸ったことでなる内部被爆についての研究はまだないことや、放射能で汚染された野菜を食べていたことで癌や白血病、心臓病になる被爆者が多いことを、教えていただきました。病院に行くたびに、被爆した母親たちから生まれた奇形児の標本を見るうち、被爆した自分は子供を持つまいと誓い、「自分はどうせ早死にする」と自暴自棄になったときもあったそうです。「原爆は自分の人生を大きく変えた」とおっしゃいました。
「戦争は人の心もなにもかもなくしてしまう。絶対にあってはならないもの。」「広島に生きる意味を考えて、しっかり見つめて考えていってほしい」とメッセージをくださいました。
原爆のことを勉強してこられた清水さんや核兵器廃絶のために努力してこられた被爆者の方たちから学びながら、私たちも日々頑張っていこうと思いました。
ありがとうございました。
(高2大久保)