2016年7月14日木曜日

☆2016322 有馬静江さん、片岡絹子さん 証言収録☆

2016年7月14日木曜日 10:52
2016322日に有馬静江さん、片岡絹子さんの証言収録を行いました。場所は、広島女学院中学・高等学校の図書室です。インタビュアーは高1の大久保です。

有馬さんは現在81歳、被爆当時は10歳でした。片岡さんは現在78歳、被爆当時は8歳でした。お二人は姉妹で、以前ヒロシマ・アーカイブの証言収録に協力してくださった、川本 知さんの妹さんです。(http://jogakuin.mapping.jp/2016/03/blog-post.html)当時の家族構成は、母と長男(川本さん)、次男、三女、そして叔母の7人で、お父様は、出兵していました。お二人は、爆心地から2㎞離れた楠町3丁目に住んでいました。

86日午前815分、お二人は、自宅近くの路地で遊んでいた時に被爆しました。原爆炸裂時は、火事かとおもったそうです。そして、瓦が飛んできて、砂ぼこりで辺りがだんだんと暗くなり、見えなくなりました。瓦やガラスが二人を襲い、血を流しながら、家に帰りました。家は無事でしたが、母親から土手の方へ逃げるように言われ、二人で土手に行きました。その後、母と弟、妹、また、学徒動員されていた兄が合流しました。そして、みんなで、長束町の竹やぶへと避難しました。

その日、86日の夜に弟が、そして翌日、7日の昼に妹が亡くなりました。弟と妹は、投下当時、母と一緒に隣の家から帰るところで、母よりも先に玄関を出たため、日向にいました。そのため、熱線を浴び、全身ひどい火傷を負っていました。竹やぶの中で、ござの上に寝かせているとき、「苦しい。水が欲しい。」と言っていました。しかし、水を飲ませたら死んでしまうと聞き、水をあげることができず、つらかったとおっしゃっていました。

お二人のけがは、最初は出血がひどかったものの、片岡さんの頭に入っていた瓦を取った時以外、医者にかかることはなかったそうです。しかし、時がたち「原爆を受けた人はお嫁にいけない。」という言葉を聞き、「受けたくて受けたのではないのに…」と思ったという、つらい経験もお話ししてくださいました。

収録の最後に、戦争は、絶対にやってはいけないものだと、何度もおっしゃっていました。また、「アメリカは恨んでいない。戦争を恨んでいる。」というお二人の言葉は、私の心に響きました。そして、お二人が私たち、若い世代に望んでいる「贅沢ではなくても、穏やかな・平和な日々を送ってほしい。」という思い。この日々の実現に向けて、少しでも私にできることは、この活動を続けていくことなのだろうと思いました。