2017年1月10日火曜日

☆20161025 久保田圭二 証言収録☆

2017年1月10日火曜日 14:17
2016年10月25日久保田圭二さんの証言収録を行いました。場所は、広島女学院高等学校の放送室です。インタビュアーは高1の初鹿野です。

久保田さんは現在73歳です。2歳の時、爆心地から約1キロ離れた祖父母の家で被爆しました。当時の家族構成は、母親、祖父母、伯父、長女(姉)そして長男(久保田さん)でした。父親は山口県の陸軍で勤務していました。久保田さんの実家は爆心地近くの市役所の側だったのですが、建物疎開の対象になったので、祖父母の家に住んでいました。

8月6日午前8時15分、久保田さんは祖父母の家の2階にいました。久保田さんが踊り場でおしっこをしたため、床を拭きとっている祖母と被爆しました。一階にいた祖父と姉は家の下敷きになりましたが、祖父は自力で這い出し、姉と祖母を見つけ、助け出しました。久保田さんは見つからなかったので、3人は火の粉をよけるため、近くの橋の下に避難したそうです。久保田さんは爆風で庭にふきとばされ、意識を失っていたところを、祖父母の家に下宿し、いつもかわいがってくれていた大学生に助けてもらいました。家族とはぐれたため、大学生の実家である呉に一緒に避難させてもらいました。一週間後に久保田さんが帰ってきたとき、家族は、久保田さんが焼け死んだものと思っていたのでとても驚いたそうです。

6日は、母親は、建物疎開の勤労奉仕に出ているときに被爆し、顔がわからないほどの半身やけどをして帰宅しました。病院が機能していなかったため、検疫所に運ばれましたが、4日後の10日に亡くなりました。父親は山口の陸軍に所属していましたが、運悪く8月5日に爆心地から300mあたりにある広島の西練兵所に出張で来ていて、被爆しました。下半身にやけどを負い、可部に運ばれましたが、その日のうちに亡くなりました。同僚がお骨を自宅に持ってきてくださいました。

両親を亡くし、原爆孤児になった久保田さんは母方の祖父母に、お姉さんは子どもを亡くした父方の親戚に引き取られ、別々に暮らすことになりました。小学生になって時々お姉さんが祖父母の家に遊びに来てくれましたが、いつも喧嘩になっていたそうです。いつも空腹だったので、祖父の店のお菓子を食べて叱られたり、女子生徒の給食をわけてもらったりしました。「当時は両親そろっていること自体が珍しかったし、祖父母がいるだけましだと思っていたし、みんなが貧しかったので特に差別もみじめさも感じなかった。」と久保田さんは貧しくも楽しかった少年時代のエピソードをたくさんお話してくださいました。

呉にしばらくいたおかげか、久保田さんは原爆の後遺症に悩まされることはなく、自分で貯めたお金で高校を卒業し、銀行に就職しました。とはいえお金がなく、卒業が2年遅れたことを同級生に馬鹿にされたので、その同級生よりもいいところに就職しようと奮起し、銀行の金融官を目指しました。就職試験で「君は高卒で家も親もない。それでも勤められるか。」と言われたので、「親がいなくても本人次第です。今までも親がなくてもやってきたし、この銀行でもトップを目指します。」と言い、合格し、退職するまで勤められました。
尾道在住の理想の女性に出会ったので、結婚を申し込んだら、彼女の両親に被爆者だからと反対されました。でも、無事結婚し、家も建て、退職後は、夢だったレストランを経営し、幸せな生活をされたそうです。
65歳で店をやめ、離ればなれに生活した姉との時間を持とうと、二人でピースボートに乗りました。ニューヨークに滞在しているときに「被爆証言をしてほしい」と頼まれました。2歳だったため、あまり記憶がないので同室のお姉さんの話を聞きながら、何を話すか整理し、統計や事実をリサーチして資料を作成し、話しました。それが久保田さんにとっては初めての証言活動となりました。また、それ以降、ピースボートでは被爆者が証言をするのが慣例となったそうです。

690人でいろいろな国籍の人が乗っているピースボートで証言をする中、思いを伝える難しさを感じられたそうです。アメリカ人に「原爆がなければもっと多くの日本人が死んだはずだ。」と言ったので、久保田さんは「原爆で亡くなった人の数はほんとうに多いので、それ以上の人が死ぬ戦争がどのようなものかは自分には想像がつかない。でも私達ではなく当時の司令官がしたことで、解釈は人それぞれだからこれ以上の議論はやめよう。」と答えたそうです。
「戦争は国と国との喧嘩であって一個人が始めたわけではない。戦争をやると決めた人たちは戦場にはいかない。不可抗力で巻き込まれた国民、特に若者が戦場に送られる。両親を奪ったアメリカを憎いとは思わないが、日本の真珠湾奇襲攻撃は軍艦を狙ったのに対し、アメリカは東京や神戸など民間にも爆弾を落としたので、国際法違反だとは思っている。 今も日本に戦争をしようとするお偉いさんがいる。自衛隊が戦争に参加するようになったら自衛官になる人は減り、また徴兵制が導入されるようになると思うと恐ろしい。」
とおっしゃいました。


両親を原爆で亡くし、つらい経験もたくさんしたはずなのにとても前向きに生きていらっしゃり感銘を受けました。「人生はいつでも今が一番。人生はいつもこれから。自分の命は大切にしよう。」とおっしゃっていました。この言葉は原爆孤児になり、苦労をしながらも前向きに、自分の人生を責任もって計画し、努力し、目標を達成してきた久保田さんだからこそ言えるものだと思います。被爆体験ばかりでなく人生観も学べてよかったです。これからは戦後の復興中の広島についての紹介もしていきたいと思いました。久保田さんと同じような境遇の子どもをつくらないためにも、私達なりの平和活動を頑張っていきたいです。