2017年1月10日火曜日

☆20161115 近藤康子さん 証言収録☆

2017年1月10日火曜日 14:19
2016年11月15日に近藤康子さんの収録を行いました。場所は、広島女学院高等学校の放送室です。


近藤康子さんは現在75歳で被爆当時4歳でした。原爆がさく裂した時、康子さんは爆心地から約3・5キロに住んでいた母方の祖母の家にいました。その年の4月から、母と生後10か月の妹と疎開していました。父親はフィリピンに出征していたのでたまに帰省しても父とわからず、人見知りしたそうです。叔父の経営する配給所を母が手伝っていたので、そこにくる知り合いを父と思っていました。


8月6日の8時15分、家の近くの小川で遊んでいると突然ぴかっとあたりが光り、康子さんは気絶しました。気が付くと母に手を引かれて防空壕に逃げていました。妹は「ぎゃー」と叫んだため、口の中にガラスの破片が大量に入ったので、母が手を突っ込んで取りました。二人の口と手は血で真っ赤になりました。


原爆投下3日後に爆心地から1.8kmに住んでいた父方の祖母を探しに行きました。爆心地に近い場所は焼け野原で、あたり一面死体があったのでその死体を踏んで歩くしかありませんでした。その事を今でも申し訳なく思っているそうです。祖母はみつからなかったので、田中町の家に帰りました。爆風で水道が壊れ、噴出しているのがきれいだと思いました。幽霊のように手を前にした被爆者が大勢歩いていて母親はその看病をしていました。自分に「水をちょうだい」と声をかけた人がいましたが、何もできなかったことを忘れられないそうです。
祖母は江田島に避難していのでそこで再会し、呉に移りました。康子さんは一か月高熱と下痢が続き、どす黒い緑色の便が出て、腸が飛び出しました。母親が腸を押し込んでくれましたがとても痛かったそうです。妹も高熱とひどい下痢で苦しみ、這い這いすると下痢した血便が床に染みつきました。一か月したら二人とも体調が戻ったそうです。呉の保育園では「疎開っこ」「被爆者」といじめられ、家に引き返したこともありました。
父が兵役を終えてフィリピンから帰ってきたので以前住んでいた田中町にバラックを建てました。雨漏りがひどく、生活は苦しく、病気と貧困の戦いだったそうです。
 学区の竹屋小学校は全焼し、幟町小学校と合併しました。そこに通いました。最初、校舎が一部しかなかったので青空教室でした。給食が始まったのは4年生のことで脱脂粉乳とパンでした。
 6年生の時、康子さんの同級生が白血病で亡くなりました。突然のことで驚きましたが、このような事は当時決して珍しくなかったそうです。佐々木禎子さん同様、ABBCで解剖をされ、おなかが真っ黒だったと聞きました。のちに、被爆すると生殖器や内臓、消化器に異常が起こると知りました。
「被爆者はだらだら病があるから就職させたくない。奇形児が生まれるから結婚もさせたくない。」と差別されました。妹さんは広島では結婚できないからと山口で仕事をみつけ、そこで結婚して今も住んでいます。が、他県のほうが、理解してもらえないことが多く、原爆手帳を出すのも気兼ねだし、証言活動もしていないそうです。康子さんは大阪出身の男性と知り合いました。「君が被爆者でも気にしない。あのころは戦争でみんなが苦しんだ。戦地で負傷して職に就けない人たちもいる。」と言って、康子さんと結婚しました。
康子さんは今、資料館のピースボランティアの二期生として活動しています。証言活動を始めたのは、2年前です。子育てが終わったので、もう二度と私達のような人を出さないようにするために、とピースボランティアに公募し、今は証言や資料館と慰霊碑の案内をしていらっしゃいます。「恨みを通り越し、前向きにならないと平和は来ない。オバマ大統領には謝罪をするのでなく、今後核兵器廃絶のリーダーとして活躍してほしい。トランプさんにも核兵器を日本に持てという前に、まず広島の資料館に来て、現実を知ってほしい。」とおっしゃいました。

また私達若い世代には、「二度と戦争被害を繰り返さないため、署名活動や証言活動を継承し、英語で世界に発信してほしい。」とおっしゃいました。康子さんの言葉を胸にこれからも活動を続けていきたいです。