2015年3月26日(木)に石井みつこさんの証言収録を行いました。場所は広島女学院高等学校の放送室、インタビュアーは高校2年の徳山です。
石井みつこさんは、1938年1月12日生れの77歳です。被爆当時は7歳でした。当時の家族構成は、両親と一人の兄、3人の姉と一人の妹とみつこさんでした。
原爆が投下された時、石井さんは、幟町の自宅の2階でお姉さんと勉強されていました。爆風で家がつぶれ、みつこさんは家の大黒柱に手首を挟まれ、宙ぶらりんになってしまいました。遠方の福屋や中国新聞社が、他の建物がなくなったため、石井さん宅からも見えたそうです。お姉さんが呼んだ近所の方が、助けてくれ、抱いたまま広島駅裏の避難所まで運んでくださいました。息子と遭遇したその方が、子ども二人運ぶ乳母車を探しにいったまま、戻ってこなかったので、みつこさんは線路に沿って歩きました。すると、何もないのに線路の枕木に火がつくので7歳だったみつこさんはとても驚きました。のちに、地上に降りた空気が3000℃という高温だったので、枕木が発火したとわかりました。自分の皮膚も全身焼けてしまいました。
しばらくすると急に大雨が降り始めました。
8月6日の朝は晴天だったので、みつこさんは大変驚かれました。この大雨は「黒い雨」と呼ばれています。すると今度は、赤・黒・青・黄の炎を発しながら、壁のようなものがむくむくと大きくなり、広島の街の上空に回りながらあがっていきました。7さいのみつこさんはこの色とりどりの壁のようなものに「きれいだな」という感想を抱かれました。この壁はのちに「キノコ雲」と呼ばれています。その後、どしゃぶりになったのです。
学徒動員の若者たちや、町の人たちが東の方へ逃げていくのでついていきました。その先にテントがあり、お医者さんがいらっしゃり、水をのむ桶がありました。みつこさんは全身に火傷の治療を受け、水を飲ませてもらいました。その後看護師さんが、避難者のたくさんいる東照宮の回廊まで連れて行き、家族を待つよう言われました。神主の奥さんがおにぎりを振舞ってくれましたが、死体だと思っていた衣服も皮膚も焼け爛れ、泥だらけの大人たちがおにぎりを求めていく姿に圧倒され、自分が食べたかどうかは記憶にありません。10日後、家族が迎えに来てくれたときは、栄養失調だったそうです。光町から歩いて、同じ町内の人たちが避難している中山に行きました。そこでも食事は十分に食べることが出来ませんでした。お茶碗のなかに10粒ほどのお米しかないようなおかゆを食べていたそうです。家族全員が生きていくのは厳しかったので、みつこさんは山口の親戚の場所に行きましたが、そこでも食べるものがなく、台風の被害にもあったので、すぐに広島に帰省しました。
戦後、石井みつこさんは、被爆者であるため、就職ができませんでした。結婚しましたが、夫も、放射能のある中で育ったためか、全身の倦怠感に悩まされ、働くことができなかったので、光子さん自身が速記を習い、32歳でタイプライターを習い、印刷所を開業され、40年間続けられました。また、タイプライターの教室も開かれました。
「人はみんな死ぬ。だけど、みんな、誰かに殺されるのではなく、天寿をまっとうしたいでしょう。」みつこさんは言います。「日本には生活に困っている人がたくさんいるのに、なんで軍事のためにお金を使うん? 戦地に人を送ると、生活に必要なものや食べ物を人がいなくなり、みんな貧しく、苦しくなるってことがどうしてわからんのん?」
「上に立つ人は世の中が暗くなる発言しちゃいけんよね。(いけないよね。)
暗い発言が日本をゆがめていくからね。明るい中で生きていけるようにしなければね。私も頑張ります。」
私は、今日石井みつこさんのお話をきいて、核兵器は絶対反対という気持ちがさらに強くなりました。今日は貴重なお話をありがとうございました。(難波)