2015年4月1日水曜日

☆20150326 石井みつこさん 証言収録

2015年4月1日水曜日 16:04
 2015年3月26日(木)に石井みつこさんの証言収録を行いました。場所は広島女学院高等学校の放送室、インタビュアーは高校2年の徳山です。

 
 石井みつこさんは、1938年1月12日生れの77歳です。被爆当時は7歳でした。当時の家族構成は、両親と一人の兄、3人の姉と一人の妹とみつこさんでした。

  

 原爆が投下された時、石井さんは、幟町の自宅の2階でお姉さんと勉強されていました。爆風で家がつぶれ、みつこさんは家の大黒柱に手首を挟まれ、宙ぶらりんになってしまいました。遠方の福屋や中国新聞社が、他の建物がなくなったため、石井さん宅からも見えたそうです。お姉さんが呼んだ近所の方が、助けてくれ、抱いたまま広島駅裏の避難所まで運んでくださいました。息子と遭遇したその方が、子ども二人運ぶ乳母車を探しにいったまま、戻ってこなかったので、みつこさんは線路に沿って歩きました。すると、何もないのに線路の枕木に火がつくので7歳だったみつこさんはとても驚きました。のちに、地上に降りた空気が3000℃という高温だったので、枕木が発火したとわかりました。自分の皮膚も全身焼けてしまいました。

 しばらくすると急に大雨が降り始めました。
8月6日の朝は晴天だったので、みつこさんは大変驚かれました。この大雨は「黒い雨」と呼ばれています。すると今度は、赤・黒・青・黄の炎を発しながら、壁のようなものがむくむくと大きくなり、広島の街の上空に回りながらあがっていきました。7さいのみつこさんはこの色とりどりの壁のようなものに「きれいだな」という感想を抱かれました。この壁はのちに「キノコ雲」と呼ばれています。その後、どしゃぶりになったのです。





 学徒動員の若者たちや、町の人たちが東の方へ逃げていくのでついていきました。その先にテントがあり、お医者さんがいらっしゃり、水をのむ桶がありました。みつこさんは全身に火傷の治療を受け、水を飲ませてもらいました。その後看護師さんが、避難者のたくさんいる東照宮の回廊まで連れて行き、家族を待つよう言われました。神主の奥さんがおにぎりを振舞ってくれましたが、死体だと思っていた衣服も皮膚も焼け爛れ、泥だらけの大人たちがおにぎりを求めていく姿に圧倒され、自分が食べたかどうかは記憶にありません。10日後、家族が迎えに来てくれたときは、栄養失調だったそうです。光町から歩いて、同じ町内の人たちが避難している中山に行きました。そこでも食事は十分に食べることが出来ませんでした。お茶碗のなかに10粒ほどのお米しかないようなおかゆを食べていたそうです。家族全員が生きていくのは厳しかったので、みつこさんは山口の親戚の場所に行きましたが、そこでも食べるものがなく、台風の被害にもあったので、すぐに広島に帰省しました。



 戦後、石井みつこさんは、被爆者であるため、就職ができませんでした。結婚しましたが、夫も、放射能のある中で育ったためか、全身の倦怠感に悩まされ、働くことができなかったので、光子さん自身が速記を習い、32歳でタイプライターを習い、印刷所を開業され、40年間続けられました。また、タイプライターの教室も開かれました。 石井さんは、20年位前まで被爆証言をされてきませんでした。当時7歳だった石井さんは当時大人だった人のように話すことができないと思ったからです。しかし、被爆証言をする方々が高齢になり、亡くなり、体内被爆や被爆二世の方々も証言をされている姿を見る中で、自分も話さなければと思い、現在は、修学旅行生をはじめ、様々な方を対象に証言をされています。



「人はみんな死ぬ。だけど、みんな、誰かに殺されるのではなく、天寿をまっとうしたいでしょう。」みつこさんは言います。「日本には生活に困っている人がたくさんいるのに、なんで軍事のためにお金を使うん? 戦地に人を送ると、生活に必要なものや食べ物を人がいなくなり、みんな貧しく、苦しくなるってことがどうしてわからんのん?」



「上に立つ人は世の中が暗くなる発言しちゃいけんよね。(いけないよね。)
 暗い発言が日本をゆがめていくからね。明るい中で生きていけるようにしなければね。私も頑張ります。」


私は、今日石井みつこさんのお話をきいて、核兵器は絶対反対という気持ちがさらに強くなりました。今日は貴重なお話をありがとうございました。(難波)