2014年10月9日木曜日

☆20140927 豊田文枝さん 証言収録

2014年10月9日木曜日 16:11
 2014年9月27日(土)豊田文枝さんに、インタビューしました。場所は広島女学院の第1AV教室、インタビュアーは高1の大坪です。

豊田さんは1928年11月3日生まれの86歳です。被爆当時は呉市にお住まいで、広島女子専門学校(現在の広島県立大学)に通われていました。学徒動員で人間魚雷の回天を解体する作業をしていたものも、それはとてもつらい作業で耐えられなくなり転校してすぐ被爆されました。

1945年8月6日8時15分豊田さんは学校の講堂に到着し、一息ついたところでした。気を失い目が覚めるとそこは大きな穴の中。どうにか穴から抜け出した頃にはもう夕方でした。その時には気が付かなかったそうですが、134個ものガラスの破片が頭や顔に刺さっていたそうで頭に包帯を巻かれて重かったと豊田さんは語ります。その後全身火傷を負った見ず知らずの人と共に逃げてゆき無事に自宅まで帰れたそうです。一緒に逃げた人にお礼が言えなかったことが心残りだと何度も言っておられました。


原爆投下後、母親が丁寧に看病をしたおかげで傷痕もそこまで残らずに済んだそうです。しかし、変な爆弾だったのだからという理由で部屋の奥にこもり誰にも会ってはいけないと言われたそうです。部屋から出ることを許されたのは5か月後のことでした。

豊田さんはこうおっしゃいました。

「戦争はしない方がいい。話し合いで解決できるものは話し合いで済ませてほしい」と。
これは被爆者の方が切に祈っておられることだと思います。このような意見が世界に広がればいつか世界が変わる日が訪れるのではないのでしょうか。しかし、その意見を被爆者の方が伝えるのは難しいのが現状です。“その任務をまかせられる=証言を聞く”だと私は日々思っています。

また、「よく今まで生きたと思います。」という言葉を聞き豊田さんの本音なのだと感じました。それと共に今、豊田さんのお話を聞けていることが本当にすごいことだということに改めて感じることが出来ました。

豊田さんは今回が初めての被爆証言だったそうですが、分かりやすく丁寧に話してくださいました。
貴重なお話をありがとうございました。(伊藤・並川)


2014年9月10日水曜日

☆20140909 橋本薫さん 証言収録

2014年9月10日水曜日 18:06
橋本薫さんにインタビューしました。場所は広島女学院の放送室、インタビュアーは高1の荒井です。

橋本さんは、1929年10月1日のお生まれです。もうすぐ85歳です。
今の広島市中区段原の理髪店の息子です。
7人兄弟の下から2番目の息子として生まれました。

橋本さんは軍族として生まれました。当時は就職するのには、学校からの推薦が必要でした。
橋本さんは、学校からの推薦を受け、広島陸軍兵器補給所というところに勤めていたそうです。
広島陸軍兵器補給所とは、陸軍の兵器を管理するところです。橋本さんは、兵器の修理をしていたそうです。

1945年8月6日、橋本さんは、アメリカに秘密の武器を見られないように、比治山へ隠しに行かれていたそうです。午前8時15分、原爆が投下された時、何が起こったかわからなかったそうです。橋本さんは、数分気絶してしまわれました。
「比治山のおかげで私は助かった。」
原爆投下地と橋本さんがおられたところはとても近く、比治山がなければ橋本さんは即死になっていたそうです。
橋本さんはその時、生きた子どもが「助けてくれぇ。」と言うのを聞かれたそうですが、助けようにも助けることが出来ず申し訳ない気持ちになられたそうです。

原爆投下後、橋本さんは、水を求めて川に飛び込んで亡くなられた方々を素手で引っ張り上げ、トラックに積み、三篠の使われていない水田へ運び、その方々を焼くという作業をされていました。
その作業に2月要しました。橋本さんは10月にようやく家に帰ることが出来たそうです。
橋本さんは、両腕にケロイドが出来てしまい、今もその痛々しい傷が残っていました。


「戦争は、自分の命を犠牲にしても止めるべきだ。」
水を求めて川に飛び込んで亡くなられた方々を目の当たりにされた橋本さんはそのような強い気持ちを抱いておられます。
また、橋本さんは、原爆についてのご自身の意見を語られました。
「原爆は憎いが、原爆が落ちていなかったら日本国民は(地上戦によって)三分の一も残っていなかったと思う。
原爆が落ちたから天皇が降参したのだ。
原爆は悪だが、日本国民を守ったのだ。原爆が落とされたことを恨むべきなのかもしれないが、私は恨んでいない。」
一体どのような出来事が橋本さんをこのように達観することが出来るようにしたのでしょうか。

「人を大切にしていたから、原爆にあっても手の火傷だけで済んだのだ。私は上等の上等ですよ。」
橋本さんの、周りの人を大切にする心が橋本さんの人生を作り出したのでしょう。
私も、橋本さんのようにもっと人を大切に出来るよう、精進していきたいです。

今日は貴重なお話をありがとうございました。(難波)

2014年9月3日水曜日

☆20140806 岡邊好子さん 証言収録

2014年9月3日水曜日 18:02
岡邊好子さんにインタビューしました。
場所は、広島女学院の放送室、インタビュアーは高2の石原です。
今回はNHKの取材も入りました。


岡邊さんは1929年8月11日生れの85歳です。
家族構成は、両親と四人姉妹の六人家族です。
岡邊さんは、原爆投下時16歳でした。
広島女学院の四年生でした。
しかし、勉強はさせてもらえず、牛田の開墾作業をさせられていました。


当時、岡邊さんは、学徒動員で鉄道の切符を作っていました。
1945年8月6日、岡邊さんは、学校に行こうかどうか迷って、結局家におられました。
原爆が落ちた時、岡邊さんは、1.6kmの地点で被爆されました。
最初は、自分の家に焼夷弾が落とされたと思ったそうです。



岡邊さんのお父様も被爆して火傷がひどく、病院の中でも最も重症の人の病室に入れられました。
岡邊さんが二人の所へ行くと医者に「あと2、3日の命でしょう」と言われたそうです。
その後、お父様は、かさぶたを軍医に剥がされたことが原因で熱を出してしまいました。
後日、姉が見舞いに行き、戦争が終わったことを告げると、お父様はうんと頷いて息を引き取られたそうです。




「私は、今が自分の青春時代だと思うよ。」
16歳の青春時代を日本政府によって奪われた岡邊さんはこうおっしゃいました。
凍らされた16歳の感情が今になってようやく解き放たれたのでしょう。
「私が学生だったとき、勉強させてもらえなかった。だから、今学生のあなたたちに、勉強してもらいたい。」
勉強さえできなかった岡邊さんは、私達に勉強の有難さを強く訴えかけました。



「命を大切にして、しっかりと、生きていてほしい。
Yes, Noをはっきり言える人になってほしい。
私はしたいと思ってもできなかったもの。」
戦争の厳しさを生き抜いてきた岡邊さんは、誰よりも、命の大切さや自己主張の大切さを知っておられます。


岡邊さんの証言を聞き、勉強のできる自分の環境が、とても幸せだと改めて気づかされました。


今日は、貴重なお話をありがとうございました。(難波)


2014年7月14日月曜日

☆20140713 奥田武晴さん 証言収録

2014年7月14日月曜日 16:57
奥田武晴さんにインタビューしました。場所は広島女学院の放送室、インタビュアーは高1の難波です。今回は東京のテレビの取材も入りました。





奥田さんは昭和2年2月12日のお生まれです。
原爆投下まで呉の大竹の313部隊におられました。
8月6日8時15分に原爆が投下された時、奥田さんは東広島で爆発事故が起こったと思ったそうです。



奥田さんは原爆投下後一週間の8月13日に広島市内にはいられました。
広島市内へ行くために電車に乗ろうとしましたが、電車が来なかったので、歩いて帰ったそうです。
その時の広島は、人の死体は片づけられており、瓦礫が散乱していたそうです。
また、広島の街を歩いていた時、馬が死んでいるのが見えたそうです。
友人に出会いましたが、「大丈夫か」という程度しか話さなかったそうです。






奥田さんは、戦後、大野陸軍病院にいらっしゃいました。
そして、昭和20年9月17日におこった枕崎台風を体験されました。
大野陸軍病院は土石流に飲み込まれたそうです。
しかし、今は、大野陸軍病院のあったところは住宅地になっています。
奥田さんは、また枕崎台風のような災害が起こった時、住宅地に大きな被害が出ることを心配しておられます。







「原爆はぜったい無くさんといけん。」
奥田さんは力強く、おっしゃいました。
奥田さんは世界の出来事に関心を持たれている方なので、このようなこともおっしゃいました。
「原爆はみんなで協力して無くさんといけんが、無理かもしれんな。
広島のより何千倍も強い原爆できているからの。
原発もじゃ。人類が滅亡する。
ほっといてもいかん。平和な国になるように手を打たんと。」



私は奥田さんのお話を聞いて初めて、原爆投下一週間後の広島を知ることができました。
おそらく私のように原爆投下直後の広島は知っていても、少し時間のたった広島は知らないという方は多いと思います。そういう方たちにも、原爆投下一週間後の広島を知ってもらいたいなと思いました。このお話を後世に残していきたいです。(難波)

2014年6月18日水曜日

☆20140607 山崎英芳さん 証言収録

2014年6月18日水曜日 18:06
2014年6月7日(土)


山崎英芳さんにインタビューしました。場所は、広島女学院の第1AV教室、インタビュアーは高3の久保田です。

山崎さんは1963年7月29日のお生まれです。
約10年前にアメリカにある日本人学校の教師として赴任されました。そのときに、日本人向けの情報誌で親鸞像のことを知りました。

実際に見た親鸞像は決して目立つものではなく、興味を持って見ないと目に入るものではなかったそうです。

2005年の5月に核不拡散条約(NPT)再検討会議に合わせてパレードが行われました。
山崎さんご家族は、この行進に参加するのは危険ではないかとも思われたそうですが、実際は全くそのようなことはありませんでした。
この行進には約4万人が集まりました。山崎さんは、アメリカでパレードがこんなに大々的に行われ、多くの人が集まるのかと、とても驚いたそうです。


毎年ニューヨーク本願寺で8月5日8時15分に合わせて行われている平和式典にも、山崎さんは参加されました。
この式典では様々な宗教の代表者が平和の鐘をつき、それに合わせて歌や折り鶴などが捧げられます。
その後、ニューヨーク本願寺からリバーサイド教会まで、皆でプラカードや写真などを掲げて黙って歩く「ピースウォーク」をしました。

山崎さんは、原爆を投下した国で、被爆国民が平和式典に参加していることに、とても複雑な心境になったそうです。
なぜなら、山崎さんのお父さんは入市被爆しており、毎年8月6日になると被爆体験を聞かされていたからです。
また、山崎さんは、外国で差別を受けたことで、自分は日本国民であるという意識が強くなったとおっしゃっていました。
しかし山崎さんは、式典に参加した多くの外国の方々が原爆に興味を持ってくれているということを実感し、嬉しく思っているそうです。



山崎さんは、アメリカが被爆国の像を受けいれたことは信じられないが、この親鸞像が両国の懸け橋になってくれたらいいと思っているそうです。
この親鸞像が決して目立つものでなかったとしても、アメリカに立っていることに意味があると考えています。

山崎さんは、
「批判するのは簡単だが、正しいと思っていることを主張するのは難しい。だからこそ、何故戦争が起こったのか、何故原爆が投下されたのか、きちんと正しい知識・歴史観を学び、自分なりに考えてほしい。目の前の情報に飛び付くのではなく、それをもとに見極める力を養っていってほしい。」
とおっしゃっていました。


今回、山崎さんのお話を聞いて、私達がこれからすべき事が分かりました。
それは、「メディアが発達し、様々な情報が入り混じっている情報社会」に生きている今、膨大な量の情報の中から正しい情報を選びだす力をつけなければならないということです。
また、国内外における平和に対する意識に関する様々な情報も、きちんと見極める力を養っていくべきだとも気づかされました。


今日は貴重なお話をしてくださりありがとうございました。(大坪・難波・荒井)

2014年6月13日金曜日

☆20140604 土井史郎さん 証言収録

2014年6月13日金曜日 18:03


2014年6月4日(水)


今日土井さんの証言収録に三滝まで行ってきました。
インタビュアーは高3の久保田です。



土井さんは昭和10年10月23日生まれの78歳です。
当時土井さんは、祖父母とご両親、アメリカ生れの2人の姉,4人の兄がいました。
土井さんが被爆したのは小学校4年生(8歳)の時でした。
8月6日の朝8時になっても先生が来なかったので級長(クラス委員長)としてかくれんぼをすることを提案しました。土井さんはじゃんけんをした結果鬼になり、100数えていました。
すると、近所のおばさんに「子供、敵機じゃ!はよ逃げい!」と言われました。
そして空を見上げるとピカッと光るとともに、5m程離れた教室まで吹き飛ばされたそうです。その時、教室の窓ガラスの破片が後頭部に突き刺さりました。
幸いにも机といすの間に吹き飛ばされた土井さんは、落ちてきた天井に押しつぶされることなく無事に生き残ることができました。


自宅に帰ろうとした時、青年会館の近くのかやぶき屋根の家が光線により火事になっていました。
かやぶき屋根というのは、かやとわらで作られた屋根です。
土井さんが避難してくるのが遅い後輩を待っていると、友人に顔が真っ赤だと言われ、その時初めて土井さんは、自分のシャツやズボンが真っ赤に染まっており、後頭部にガラスが刺さっていることに気付きました。



当時、土井さんの家には、疎開してきた家族と土井さんのご家族を含め、計4家族で暮らしていました。
土井さんのお父さんは三滝の副会長をしており、連日、現在の広島の100m道路で建物疎開の作業をしておられました。8月6日の朝もそこで作業をしていて、被爆しました。爆風により路面電車の線路に倒れ、足首から下が鉄骨の下敷きになってしまい、逃げる事が出来ず、火が回って焼死しました。
後に、土井さんの姉と兄がお父さんを探しに行き、焼死したお父さんのご遺体を見つけました。
そこには、毎日履き替えていた新しい地下足袋と金歯がありました。その金歯は、日本製のように薄くなく厚いもので、アメリカに移民していた頃に入れたものだと、父の妹が断言したため、その近くにある骨が父のものだと思い、周辺の骨を拾い持ち帰ってお墓に納めました。

ご両親とご兄弟は亡くなり、今でもご健在なのは土井さんと1人のお姉さんだけです。


土井さんの身体に最初に異変が起きたのは高校卒業後のことでした。単車(オートバイ)で商売をしていたある日、三滝にある踏切で、踏切が開くのを待っていると、突然意識を失い倒れたそうです。それから一週間程ふらつき出歩く事もままならなかったそうです。
比治山にある病院で検査を受けたところ、被爆の影響による白血球減少と診断され、日赤病院へ移り再検査をすると、白血球の数が3000をきっていました。輸血をしましたが白血球の数は増えず、薬もなく、安静にしながら1年程日赤に通い、落ち着きはしました。しかし、体調が良くなることはなく、今でも炎天下にいると目眩や吐き気がするそうです。



昭和12年に6つの親鸞像が作られましたが、鉄として軍事用に使われたため、広島にあった1つしか残りませんでした。三滝にあった親鸞像は被爆し、直射日光が当たっていたけさの下の部分だけが赤くなっていました。この親鸞像は昭和26年(戦後6年)に広瀬さんによりニューヨークに送られました。土井さんは、直接立ち会ってはいませんが、三滝から横川へ運ばれる写真を今でも大事にとっているそうです。

土井さんにとってこの親鸞像は当たり前にある存在でした。
なので、土井さんご自身も関心をもって見ることがなかったこの親鸞像が、ニューヨークに送られたことはとても良いことだとおっしゃっていました。


土井さんはアメリカを憎まない方がおかしいとおっしゃっていましたが、その一方で、憎んでも仕方がないとあきらめのような、やるせない気持ちを抱いていらっしゃいます。
だからこそ、核兵器は絶対に反対してほしい、と強く思っています。「原爆は無い方がいい。罪のない人も殺すから。善人ばかり死ぬ。悪賢い人はうまい具合に生き残る。」とおっしゃいました。私たちが核兵器廃絶を求める活動をしていることを聞くと「ぜひ、頑張ってもらいたい」と激励してくださいました。

今、原爆の被爆者が減ってきている中、このように生の声を聴ける事はとても貴重なことなので、土井さんの気持ちを無駄にしないようこれからも核兵器廃絶の署名運動を頑張っていきます。


貴重なお話ありがとうございました。 (荒井・大坪・難波)