2011年8月11日木曜日

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★卒業生U様からのメール(20110805)

2011年8月11日木曜日 12:23
2011年8月5日(金)

広島女学院中高のHPにヒロシマ・アーカイブに掲載する被爆証言者を募る広告を出したところ、嬉しいことに千葉県在住の卒業生U様が連絡をくださいました。たいへん貴重な内容ですので、以下、ご本人の許諾を得て、いただいたメールを転載いたします。

矢野先生
本日には突然ご連絡差し上げたにもかかわらずご丁寧にご対応いただきまして、ありがとうございました。メールも詳しくご説明いただきまして感謝申し上げます。

父が80歳を迎え老いていく中で、元気でいてくれてる今、何か原爆当時に見たこと感じたことを是非後世に残していってほしい、と思いながら、私自身でどうしていいか悩んでいたので、その手記や証言を掲載させてもらえるサイトがあると知って何か光が見えた気がします。父の体験記は手書きですので、まずはデータ化が必要なのですね。頑張ります。

また、証言の方も是非調整して収録してもらいたいです。その際は改めて相談させてもらいますので、どうぞよろしくお願い申しあげます。

父は7人兄弟ですが、両親・兄弟ともバラバラだったのに原爆で無事で翌日に集合し合えたこともすごい奇跡を感じており、それを地図で表現できたらと思っていたので、まさに父の妹達(私の叔母達)の体験談も是非収集しサイトに掲載してもらえたらいいなと思います。

女学院の平和教育の熱心さは今も誇りに思います。矢野先生の下で収録したり、東京へ取材に行く活動をされている女学院の後輩がいるなんて心強いです。私も女学院高校時代に碑めぐりもやったりしたのが懐かしいです。今は東京で働いていますが、こちらでの平和や原爆への意識のギャップをすごく感じていて、もどかしさも感じます。

こちらで何か平和や原爆の怖さの伝承のお手伝いができないかとも最近感じるようになりました。ではどうぞ今後ともよろしくお願いいたします。


矢野先生
こんばんは。夜分失礼致します。こちらこそ、メール返信ありがとうございました。矢野先生の温かいメールに心が和らぎます。感謝致します。

そうなんです、長男の父を筆頭に父は広島二中(現観音高)3年でちょうど8月6日から宮内に作業に行ったため偶然助かりました。その日は広島に帰れず、翌日草津から歩いて爆心地を通って金屋町までたどり着いたそうです。前日まで現平和公園の近くで作業していましたから正に一日の差です。そのかわり父の後輩が犠牲になりましたが…

父の妹、長女は市女(現舟入)1年でしたが、たまたま身重の母の代理で親戚の能美島 に野菜をもらいに行ったことで助かりました。でも、能美島から心配で船で宇品に戻り、一緒に行った三女(7歳)と比治山の多耳院の近くで野宿で一夜を明かしたそうです。 今の中学生が回りに被爆をして苦しんでいる人々の中、野宿をするなんて考えられない と思います。同級生は平和大橋袂の作業場所で大勢が犠牲になり、自分は学校をさぼったから助かったという申し訳の無さで苦しんできたそうです。

二男二女は疎開中で高陽町にいたので無事でしたが、被爆した被災した方々を目の当たりにしたそうです。四女や三男は5歳で金屋町にいましたが、家の中にいたので助かったそうです。母親(私の祖母)も身重で家の下敷きになりましたが、段原小学校の校長先生が引き揚げてくれたそうです
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父親は皆実町の被服廠にいたため比治山の影となって無事だったそうです。

というわけで、U家は全員たまたま運良く無事だったわけですが、苦労をしてきているのは確かです。また、自分だけ助かったということや友達を助けられなかったことに苦しんだそうです。

すみません、いきなり矢野先生にメールでU家の当時の状況を書いてしまいました 。申し訳ございません。

父の兄弟全員健在ですが、確かに痴呆や高齢化が進んでおります。父も口数が少ない状 態です。今、急いで証言や手記のお願いをするしかないと痛感しています。

さて、碑めぐりですが東京や横浜からだったと思います。また写真部だったのですが、高1のときに国連へSUMMER CLOUDを贈呈するということになり写真部で原爆ドームの写真を撮り、暗室で焼き増しをして、BOOK MARKを作ったのを覚えています。懐かしいなぁ。

明後日、8月6日には例年どおり東京にて8:15に黙祷を行い、夕方に「この子たちの夏」という朗読劇を観に行く予定です。8月10日に帰省した際に、父とアーカイブの収録の話をしてみます。そして矢野先生にまたご相談させてもらいますので、よろしくお願いいたします。

・・・・・・
ヒロシマ・アーカイブは様々な被爆者の声や被爆にまつわる出来事を掲載していきますが、もっとも大切なことは、このような「声なき声」=「今まで語られなかった言葉」を掘り起こしていくことだと思います。改めて、襟を正さずにはおれません。私たちの作業は今後も続くのです。(矢野一郎)