2011年6月17日金曜日

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★被爆ピアノコンサート最終日(20110617)

2011年6月17日金曜日 17:06
2011年6月17日(金)

河本明子さんの被爆ピアノコンサートもいよいよ最終日となりました。

トリをとってくださったのは、女学院高校音楽科の木曽華奈子先生です。この日のプログラムは、「かっこう」(ダカン)、「トロイメライ」(シューマン)、そして明子さんの好きだった「子犬のワルツ」(ショパン)、「ノクターン」(ショパン・遺作)、「アラベスク」(ドビュッシー)です。写真は、「子犬のワルツ」の右手だけによる出だしのところです。
弾けない曲はないという我らが木曽先生の演奏は、最終日に至ってとてもリラックスしたものとなり、聞き手も、演奏に身を委ねて楽しむことができました。唯一人2回の出演を引き受けて下さった木曽先生に感謝。

ホールのロビーには、河本明子さんの写真が展示してあります。PTAの会合があったこの日、たくさんの保護者の皆さんも駆けつけてくださいました。

この演奏会のすぐ後、貴重な被爆ピアノは女学院を後にしました。

今回の一連のコンサートのためにご尽力くださったHOPEプロジェクトの二口とみゑ先生、高野ディレクター、五島ディレクター、、吉田つかささん、住田琴海さん、三上恵理子さん、木曽華奈子先生、山崎先生と高校音楽部の皆さん、福岡先生と中学合唱部の皆さん、中学礼拝委員、高校宗教委員、新人ながら一生懸命作業してくださった堀田さんと事務職員の皆さんに心より感謝申し上げます。(矢野一郎)
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★被爆ピアノコンサートその3(20110615)

16:42
2011年6月15日(水)

今日は中学生の演奏による被爆ピアノコンサートを開催しました。

最初に登場したのは中学合唱部。今年のコンクールの課題曲『証』を歌ってくれました。もちろん被爆ピアノの伴奏です。合唱部による演奏は、訓練の行き届いた素敵な演奏でした。

なお、合唱部顧問で指揮者の福岡先生は、1週間のコンサート全体の演奏者とプログラムを考えてくださいました。どのコンサートも大成功でしたが、演奏者とプログラムを決める作業はとても大変なものです。緻密な計算があってこそのコンサートなのです。
さて、この日のピアニストは中3の住田琴海さんです。曲目は「黒鍵のエチュード」(ショパン)と「ラ・カンパネラ」(リスト)。まさに超絶的な演奏で、あっけにとられているうちに、あっという間に演奏が終わりました。それにしても住田さんは恐るべき中学生、将来が嘱望されます。これからピアニストとして順調に成長されることを祈ります。

この日は、忙しい昼休みにもかかわらず、300人以上の聴衆がつめかけて、同じ中学の仲間のすごい演奏に耳を傾けていました。

とても素晴らしい昼休みを過ごすことができました。

(矢野一郎)
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★被爆ピアノ放課後コンサート(20110614)

15:50
2011年6月14日(火)16:00~17:00

放課後に、被爆ピアノコンサートを開催しました。演奏者は女学院中高音楽科教員の木曽華奈子先生と、教育実習で女学院に戻っていたピアニストの三上恵理子さんです。

木曽先生のプログラムは、「かっこう」(ダカン)、「ゴールトベルク変奏曲よりアリア」(バッハ)、そしてこのピアノの持ち主だった河本明子さんが好んで演奏したショパンの「子犬のワルツ」、「ノクターン」(ショパン・遺作)そして、ドビュッシーの「アラベスク」でした。最初の2曲は、チェンバロの曲。コロコロと可愛い音を出す明子さんのピアノに合う曲ということで、木曽先生がチョイスした曲です。ショパンの「ノクターン」は映画『戦場のピアニスト』の主題曲となった素敵な曲です。


HOPEプロジェクトの主催者で、このピアノの所有者、そして広島女学院の日本語教員でもある二口とみゑ先生によるレクチャもありました。

このピアノを弾いていた河本明子さんは、学徒動員の作業中に被爆、三滝のお家になんとか戻ったものの、翌日には苦しみながら天に召されました。最期の言葉は「赤いトマトが食べたい」だったそうです。

二口先生は、河本明子さんのピアノを引き取り、調律師の坂井原浩さんに依頼して、このピアノをよみがえらせました。
さて、この日のもう一人の演奏者、三上恵理子さんが選んだ曲目は、ベートーヴェンのピアノソナタ「テンペスト」の第3楽章、モーツァルトの「きらきら星変奏曲」、そしてショパンの「幻想即興曲」でした。桐朋音楽大学在学中にモスクワ音楽院などへ留学し、多くのコンクールで優勝している新進気鋭のピアニストの三上恵理子さんは、バプテスト教会の証言集『語り継ぐ』の三上君子さん(ヒロシマ・アーカイブ所収)のお孫さんでもあります。http://jogakuin.mapping.jp/2011/05/20110508.html

因みに、三上君子さんと河本明子さんは、共に三篠尋常小学校のご出身、家もお互い三滝にありました。戦後66年を経た今年、河本明子さんの母校広島女学院において、その後輩がピアノを弾いたのです。三上恵理子さんの演奏は、まるで河本明子さんが乗り移ったかのような演奏でした。

演奏会の後、明子さんと恵理子さんの後輩たちは、ステージの上で、明子さんのピアノに触れさせていただきました。

ヒロシマ・アーカイブグループのカメラマン山崎桃さんは、ピアノの達人でもあり、明子さんのピアノを無心に弾いていました。

この日の模様は女学院のアーカイブグループが動画に収めましたが、NHKのディレクターの五島さんも収録してくださり、一つの作品に編集してくださいます。五島さん、そして五島さんを紹介してくださった高野ディレクターに感謝申し上げます。

また、この日の様子は翌日の朝日新聞でも「被爆ピアノと少女の愛」として報道されました。
お忙しい中、最後まで取材してすばらしい記事にして下さった加戸記者に感謝申し上げます。

なお、このコンサートの様子は、被爆ピアノのコーナーとしてヒロシマ・アーカイブに収蔵される予定です。(矢野一郎)





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★被爆ピアノが女学院に来ました(20110613)

15:21
2011年6月13日(月)

河本明子さんの被爆ピアノが女学院に来ました。
この日、専門の業者さんの手によって、細心の注意を払ってピアノが搬入されました。戦後66年経って、明子さんのピアノは初めて母校にやってきたのです。

河本明子さんは、広島女学院専門部3年生に在学中の1945年8月6日に、現在の合同庁舎のあたりで被爆、命からがら三滝の家に戻られましたが、翌8月7日に、原爆症のため19才の生涯を終えられました。明子さんはアメリカ在住時からピアノの演奏を愛し、ショパンの子犬のワルツなどを弾いていました。

河本明子さんはもう一度ピアノを弾きたいとの思いを抱きながら天に召されてしましましたが、被爆したまま弾き手を失っていたピアノが、戦後よみがえります。

解体される三滝の家から、HOPEプロジェクトの二口とみゑさんの手によって、ピアノは救い出されたのです。爆風によってガラスが突き刺さったまま放置されていたそのピアノは、調律師の坂井原浩さんの手に委ねられ、再び命を吹き入れられました。

この日も、ゲーンスホールに搬入されたピアノの調律に余念のない坂井原さんの姿がありました。
今年度の広島女学院中高「平和を祈る週」の大きな行事である被爆ピアノコンサート。その初日は、高校音楽部による讃美歌298番の合唱に始まり、高3の吉田つかささんによる華麗な演奏で幕を上げました。
この日、吉田さんが演奏した曲目は、ショパンの「ワルツ」(遺作)、同じくショパンの「ノクターン」(遺作)でした。ダイナミックな演奏によって、多くの生徒・教職員が心豊かな昼休みを過ごすことができました。吉田さんは、将来すばらしいピアニストとして大成するでしょう。(矢野一郎)

2011年6月11日土曜日

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★田部侚子さん証言動画収録(20110611)

2011年6月11日土曜日 12:55
2011年6月11日(土))9:30~12:30
 
今回は、田部さんのご自宅で撮影させていただきました。インタビュアーは高2の板垣さんです。

田部さんは昭和4年2月28日のお生まれ、広島女学院専門部1年に在学中の16歳の年、被爆されました。旧高校旧校舎東部にのあたりにあったチャペルでの礼拝の直後、廊下へ出た瞬間のことでした。





田部さんは被爆直後の光景を「阿鼻叫喚だった」と語られました。

また、田部さんのお母さんは首からかかとまでやけどを負われました。
翌日、義兄様が軍におられたため、衛生兵さんが自宅に来てお母さんの治療をし、ウジ虫がわかないように、輸血をしてもらいました。

しかし、すぐ血が不足したため「馬血」を輸血せざるを得ませんでした。
また、当時は食料品も衛生的ではなかったため、お母さんはこの3年ほど後、毎朝毎日洗面器一杯の生きた「回虫」を吐くようになり、1950年7月に苦しみながら亡くなられました。

回虫の写真を実際に見ましたが、ミミズみたいでした。これが毎日口から出てくると思うと表現のしようがありません。

そして、田部さんは、板垣さんが電話をしただけで好きになるほどの素敵な方で、実際にお会いしてみても、とても親切で優しいな先輩でした。

貴重なお話を本当にありがとうございました。(室田麻季)




2011年6月10日金曜日

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★高野ディレクター来校(20110609)

2011年6月10日金曜日 18:35

2011年6月9日(木)

6月14日(火)の被爆ピアノコンサート(HOPEプロジェクトさん所有)の進行を確認するために、関係者で話し合いをしました。参加者は、女学院からアーカイブグループの生徒・校長・事務長・演奏者代表・矢野、そして、ピアノ所有者の二口さん、ディレクターの高野さんです。

髙野さんは広テレの元らつ腕ディレクター。現在はフリーで様々な行事を運営したり、福祉施設の園長をするなど、多忙な毎日を送っておられます。

高野さんは、詳しい進行表を用意してくださり、当日の進行をてきぱきと指示してくださいました。その計画はたいへんち密なもので、さすが一流の仕事をしておられた方は違うなあと、感心しきりでした。

なお、高野さんは、「一日だけの女学院生」にも興味をもってくださり、主にNHKで活躍しているフリーのディレクターの五島さんを紹介してくださいました。
こちらの方もしっかり良い作品にしたいところですが、問題は資金です・・・・(涙)

生徒が帰った後、高野さんからいろいろなテレビ番組の取材裏話を、時を忘れて伺うことができました。「ここまでやるか?!」と思わせられるもので、やはり、プロというものはすごいです。

生徒の皆さんは、そういうすごい人たちと仕事をしていること、そして自分たちが取材している対象が「一期一会」の方々であるということを、忘れないで取り組んでください。

14日のコンサートが盛会でありますように。(矢野一郎)

2011年6月6日月曜日

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★佐藤法行さん証言収録(20110604)

2011年6月6日月曜日 16:04
2011年6月4日 (土) 13:30~15:00

東京外大名誉教授の奈良先生にご紹介いただいた、高信寺ご住職の佐藤法行さんの証言を収録しに、ヒロシマアーカイブのメンバーで伺いました。

場所は広島市中区河原町、平和大通りの西南角にあるビルです。一見お寺には見えませんが、中へ入って階段を上ると、何と2階がお寺の本堂になっていて、びっくりしました。

インタビュアーは室田さんです。



高野山真言宗のご住職でいらっしゃる佐藤さんは、私たちのインタビューに、穏やかな表情で応じてくださいましたが、そのお話の内容は、本当に身の毛のよだつ恐ろしいものでした。

佐藤さんは1927年2月17日に生まれ、1945年8月6日、18歳の時に広島駅の地下で被爆されました。


この時、広島の上空の爆心の温度は100万℃にまで達しました。そのため、一瞬にして多くの人が性別の区別がつかないほど大火傷を負いました。
その頃、日本では各地で空襲があったため、広島にも各家の前に防火用水が設置されていました。被爆して大火傷を負った人たちは皆、水を求めてその防火用水に顔をつけたまま亡くなられていたそうです。
今、福島第一原子力発電所の事故により、福島に住む多くの方が、放出された放射性物質の出す放射線から逃れようと避難しています。しかし当時の日本は、敗戦し、貧しかったため、被爆した広島の人々を支援する余裕がありませんでした。広島の被爆者は、投下された原始爆弾についての情報も与えられず、避難する余裕もなかったので、そのほとんどが、残留放射線が残っている広島の地に留まって、野菜などを育て、必死に生き延びていたそうです。




佐藤さんは現在のお寺から出てきた様々な被爆した遺物を見せてくださいました。お金の入ったい貯金箱だったもの(左の写真)や、炭化して石のようになった木片、溶けたガラスの破片、鉄が溶けて張り付いた瓦などがありました。







後半、佐藤ご住職さんは、私達高校生に向けて、説法ををしてくださいました。

~幸せは遠くにあるものではない。自分自身の中にある。親に反発したりせず、自分を見つめ自分自身の中にある幸せを自分で作っていかないといけない。自分で自分を変えていってください。~(富山)



2011年6月4日土曜日

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★卒業アルバムから写真を転写(20110603)

2011年6月4日土曜日 8:14
2011年6月3日(金)

広島女学院大学(牛田)にある資料館へ、写真家の粟根靖雄さんと出かけました。、『平和を祈る人たちへ』寄稿者の被爆当時の顔写真を、資料館収蔵の卒業アルバムから転写するためです。いつもながら、緑の美しい女学院大学キャンパスの空気は、心を癒してくれます。深窓の令嬢がショパンでも弾いていそうなこの洋館が資料館です。


必要な卒業アルバムは、資料館職員の西原さんがあらかじめ準備しておいてくださいました。

このたびの取材で、大学の資料館があったことは、たいへん幸いでした。卒業生のほとんどの卒業アルバムが原爆で焼失している中、貴重な卒業アルバムの多くを保管・整理してくださっていたのです。「文書を保管すると者」という、保守的な意味でのアーキビストの努力の賜です。

私たちは、従来のアーキビストの力を借りながら、ウェブ時代の新たなアーカイブ理論の扉を開こうとしているのです。アーカイブの世界にパラダイム転換をもたらすだけの力ある仕事をしたいと思います。

『平和を祈る人たちへ』寄稿者60名中34名のお顔が、2ヶ月間の調査で判明しています。
調査する上で特に困難を極めたのは、高等女学校51回生~55回生の集合写真(身長順!)から名前と本人を一致させる作業でした。
最初は同窓会で聞き取りをしていましたが、最終的にはすべての方にすべての集合写真のコピーをお送りして、ご自分と友人の顔写真に名前を書いて返送していただくことにしました。

その結果わかった方の名前を付せんに記してアルバムに貼り付けていき、それを粟根さんに撮影してもらいます。根気よくこの作業を手伝ってくださったのは、粟根さんのマネージャーの木本さんです。

長時間の撮影を快く引き受けてくださった粟根さんと木本さん、ありがとうございました。また、この取材のために献身的なサポートをしてくださった大学資料館の西原さんに心より感謝申し上げます。

先日のバプテスト教会取材に続いて一緒にお仕事してくださった木本さんから、うれしいメールをいただいていますので、ご本人の許可を得て、転載いたします。

「・・・私は広島に生まれ育ちながらも、やはりこのように被爆者の方々やアーカイブの活動に直接通じる機会もなく、自分がいかに今まで無知であったかという事を痛感しました。それと同時に、前回や今日の事を含め、私も粟根のマネージャーとしてこのご縁ある貴重な機会に携わらせて頂く事に感謝しています。・・・・」

(矢野一郎)
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★広島電鉄と取材交渉(20110530)

8:13
2011年5月30日(月)

千田町の広島電鉄本社へ、ヒロシマ・アーカイブの取材交渉に行ってきました。

広島電鉄さんの路面電車は、広島を象徴する存在です。被爆3日後には己斐~天満町間の運行を再開していたという、不死鳥も真っ青の史実からも、広島市民の復興希望の象徴として、不動の位置を占めているのです。

しかも、当時の被爆電車のうち、651号と652号は今も現役で、朝のラッシュアワーに主に広電西広島~広島港間を走行しています。これら現役の被爆電車の取材をさせてください、とお願いしに行ったのです。

対応してくださったのは、本社総務チームのチーフ山本さんと、同じく企画チームのチーフ山広さんです。ヒロシマ・アーカイブの趣旨を説明し、取材を申し込むと、あらかじめナガサキ・アーカイブの勉強もしてくださっていたお二人から、快くOKをいただきました。もちろん、事前にコンテンツを示して納得していただいてからの公開となりますが・・・・・


通された応接室には、広電さんの歴史を物語る展示が多数ありました。その中には、日本中の路面電車を引き取って活用しておられる広電さんらしく、各地の路面電車のプレートも・・・・。

なお、被爆当日に路面電車の運転士をしていた女学生の藤井さん(福山在住)と豊田さん(倉敷在住)の連絡先も教えてくださり、お二人の証言も含めて取材したいと思います。

お忙しい中たいへん丁寧な対応をしてくださった広島電鉄様・山本様・山広様に心より感謝申し上げます。(矢野一郎)
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★女学院でのミーティング(20110529)

8:08
2011年5月29日(日)15:00~17:00
豊永さんの証言収録の直後、首都大学東京のヒロシマ・アーカイブのメンバー(学生・院生合わせて5名と渡邉英徳先生)、広島コンピュータ専門学校の学生さん(13名)と広島女学院高校アーカイブ・グループのミーティングがありました。場所は広島女学院中高の大講義室2です。

首都大学院生の高田さん(M2)と原田さん(M1.5)から、デザインについてのたたき台が発表されました。お二人の発表は、非常にきちんと用意されたもので、無駄なく雄弁な内容だったので、女学院高校生は皆感嘆のため息をつきながら聞き入っていました。自分たちの甘さを思い知ったようで、非常に勉強になりました。

原田さんは、赤ちゃんをあやしながら発表をしてくださり、その姿に「わたしたちの大切な子どもたちのためにも、核兵器は絶対に廃絶しなければ・・・」と、参加者は思わされたのではないでしょうか。途中子どもさんがぐずりだしたので、代わりに学部4年生の佐藤さんが発表を引き継いでくださいました。まるで夫のようでした本当は違います。

発表の内容は、乞うご期待、ということでここには記しませんが、このミーティングのために無理をして駆けつけてくれた高3のメンバーからも、建設的な意見が出されました。高2・高1は、こういった先輩の姿勢を是非見習ってほしいものです。

もちろん、渡邉先生からも、非常に挑発的な発表&講評がありました。いつもながら、その的確さと鋭さには感嘆するしかないです。うーん、すごい、渡邉先生! 期待できます、ヒロシマ・アーカイブ。うちらも、一生懸命資料や証言を集めて持っていくけんね~。

ちなみに渡邉先生は、細心の注意を必要とする写真マッピングの作業で神経をすり減らしており、口の中が口内炎だらけだそうです。そう言えば、渡邉先生は広島に来られた時、いつも消化器系を壊していません?
確かに、自分の体に異常が出るくらいでないと、ホンモノの仕事はできないものです。

高校生もそれくらい勉強しんさいよ!


また、専門学校の学生さんからも、積極的な意見が述べられ、さすがだなあ、と思わせられました。

そうそう、前日のミーティングの会場を、常連客の顔を利かせて手配してくださった吉田さん、ありがとうございました。横川の「つどい」の焼き肉、美味でしたし、なんと言っても安い!これも、吉田さんをはじめ専門学校の学生さんたちが通い詰めておられる賜なんですね。女学院生も卒業したら行きんさい。

この日のミーティングと前日の平和公園でのフィールドワークの模様は、NHKのニュースでも放送されました。青木記者さん、ありがとうございました。これからもどんどん放送してください。TBSの佐藤さん、朝日新聞他の取材も入りました。(矢野一郎)
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★豊永恵三郎さん証言収録その1(20110529)

8:06
2011年5月29日(日)
前日の夜は、首都大学の学生さん、コンピュータ専門学校の学生さん、渡邉先生・石堂先生に矢野でミーティングを行いましたが、女学院生は29日昼から、豊永恵三郎さんの証言収録(その1)を行いました。(ここまで矢野一郎記、以下室田・井上記)


安芸リーガルビルの2階でインタビューをしました。
インタビュアーは室田さんです。
豊永さんは在外被爆者の裁判にも関わっておられる方で、被爆証言も含め、今も様々な形で戦っている人、事のお話をたくさんしていただきました。

豊永さんは9歳のとき、安芸郡の坂町で被爆されました。広島から来た電車には、資料館の蝋人形のような人がたくさん乗っていて、腕を前に垂らし、指から火傷してむけた皮膚を垂らしていたそうです。私はこの話は、絵で見たり本で読んだりしたことはありましたが生の声を聞いたことがなかったので、本当に恐ろしかったです。

また、富永さんは30近くの在外被爆者裁判にもかかわっておられ、日本を含め、ブラジル、アメリカ、韓国などに住んでいる被爆者の方々と戦っておられます。



いつも、渡部久仁子さんの紹介して下さる人からは、新しいことを知ることができます。とても有意義な時間を過ごせました。(室田)


私は証言収録に今回初めて参加させてもらったのですが、考えさせられる事ばかりでした。このような貴重な経験が出来たことに感謝し、これからも多くの証言収録に携わりたいと思いました。(井上)